丸に加賀梅鉢
丸に加賀梅鉢(まるにかがうめばち)紋は、前田利家を祖とする加賀・前田氏の家紋として名高い紋章。ウメ紋は天満天神(菅原道真)のシンボルでも知られますが、これを前田氏が紋所とした由緒とは?他、この紋の意味や由来、使用家系のルーツなどについてご紹介します。
ウメの家紋の概要
この家紋は、中国の江南地方を原産とするバラ科サクラ属の植物である「ウメ」の花や葉を象った「ウメの家紋」の一種です。ウメ紋は、全国的な規模で普及している家紋の一つでもあります。
この家紋のモチーフとなったウメは、古来よりの「和」の観賞植物の代表格であり、また『四君子』や『歳寒三友(松竹梅)』の一角に挙げられ、「気品や高潔さ」または「めでたさ」の象徴と見なされた存在でもあります。
このように、早くから人々にとって馴染みの存在であったウメは、やがて『梅花』文様や『梅鉢』文様として図案化されると、服飾・調度・美術工芸品などの図柄に広く用いられたといいます。
ウメの紋章・家紋はこうしたウメ文様のビジュアルから派生したものであり、こうした紋章は『天満宮』をはじめとした天満・天神系神社の多くで「神紋」として用いられたことで知られます。
『天満宮』『菅原道真』『ウメ』それぞれの関係とは?
『天満宮』とは、『天神信仰』の拠点神社(群)であり、天神信仰とは「雷神」と習合して『天満天神』となった『菅原道真』を祭神として崇拝する信仰をいいます。
菅原道真とは、高名な学者でかつ、政治家としても国政執行を担った平安時代前期ごろの人物です。また彼が「幼少のころよりの筋金入りのウメ好き」であるのは、現代にまで知られる種々のエピソードが伝えるところです。
天神信仰の成り立ちとは?
そんな道真が神として崇拝されるに至った経緯は、その後の彼が、政敵の讒言によって九州の役所へ流罪同然に左遷され、冤罪の晴れぬままに無念の最期を迎えたことに端を発します。
道真の死後に相次いだ(道真を陥れた)政敵とその関係者の変死や若死、また頻発する疫病や自然災害は、「非業の死を遂げた道真の怨霊によるもの」とする社会通念が形成されると、これを慰め鎮めるために道真の怨霊(御霊)を神格化して祀ったことが天神信仰の起こりとされています。
その後、天神信仰は大いに隆盛したようで、天満・天神系の神社は、全国に12,000を数えるほどの広がりを見せることとなります。これらの神社が、そのシンボル(神紋・社紋)にウメの紋章を掲げるのは、(上述のとおりの)道真の『無類のウメ好き』にちなむものとされます。
人々がウメを家紋に用いた由来は主に2つ?
現代におけるウメ紋の広範な普及の主要因にこうした『天神信仰の隆盛』が挙げられるのは、天神信仰の信者や関係者の中に、(信仰のシンボルである)ウメの紋章を家紋に据えた者が少なくなかったからとされているようです。
また、道真の生きた時代には家紋そのものが存在しなかったため、道真自身がウメを家紋に用いることはありませんでしたが、後世になって、菅原氏やその後裔氏族(←自称含む)の多くがウメの家紋をこぞって用いたといいます。
これは史上に名高い道真の流れを汲む血筋であることを示す狙いがあったと見られていますが、こういったこともウメ紋が広範な普及に至った大きな要因の一つといえそうです。
※ウメの家紋のさらに詳しい解説は↓こちらから。
そんなウメ紋の一種である『加賀梅鉢』紋について
おおよそウメ紋は、モチーフとなったウメの花や葉を写実的にとらえた『梅花』紋と、それをシンプルな円や方形などで図形的に表現した『梅鉢』紋の2種に大別することができます。
『加賀梅鉢』は、多様な種をほこる梅鉢紋の一つ
「梅鉢」の名称は、「釣太鼓」などに用いられる(先端に球状のクッション性素材のついた)『桴(ばち)』5本を紋の中心から(球状の先端を外側にして)放射状に配置したように見えることに因むといいます。
本記事の『丸に加賀梅鉢』紋は、その名の通り「梅鉢系」に分類される家紋ですが、基本形の梅鉢紋に比べて中心部の雄しべや萼の表現に差異があるのが特徴です。
しかし、この「(丸に)加賀梅鉢」の方は「花弁」と「萼」が接着している分、基本形のものより『(先端が球状の)バチ』に近いビジュアルを有しているのが印象的といえます。
また、雄しべの部分が「剣のように見える」(または「剣に見立てている」)ことと、その呼び名に共通の由来を持つ『(丸に)剣梅鉢』紋に比べて「剣」の部分が短いことから、この紋を『(丸に)幼剣梅鉢』と分類する向きもあるようです。
加賀・前田氏の定紋ではあるが…
「加賀梅鉢」紋は、加賀藩主家・前田氏の専用紋として知られますが、意外にも前田氏が実際に使用を始めたのは江戸時代に入ってからとされます。
そのため、織田家臣かつ豊臣秀吉の盟友として知名度の高い戦国武将で、加賀藩祖に位置づけられる『前田利家』には使用されておらず、この頃の前田氏の定紋は一般的な梅鉢紋であったと見られています。
前田氏の出自と梅鉢紋の由緒
前田氏の出自については諸説があり、著名な戦国武将である『前田利家』の父・前田利春より以前についてはあまり良くわかっていないようですが、「美濃・斎藤氏」の出である説が有力といいます(美作菅氏流の菅原氏という説は、あくまで自称という)。
鎮守府将軍・藤原利仁の後裔で北陸の地に一大勢力を築いた斎藤氏の支族である『美濃斎藤氏』は、加賀国二宮である敷地天神(菅生石部神社)を氏神とし、『梅鉢』紋を用いる一族だったといいます。
美濃に移ってのちは、領内各所に天満宮を勧請するなど天神信仰に篤いことで知られ、また臣下や配下豪族などによる『梅鉢』系の家紋の使用が目立つようです。
前田氏の梅鉢紋は、この出自に関係するもののようで、やはりその由緒は「天神信仰」にまつわるものと言ってよさそうです。
梅鉢紋の中でも「幼剣梅鉢」に類いするこの紋章は、前田宗家(加賀藩主家)はもちろんのこと、支藩である富山藩主家と大聖寺藩主家もそれぞれ使用されたようですが、そのデザインには微妙に差異があり、それぞれ『富山梅鉢(富山藩)』と『大聖寺梅鉢(大聖寺藩)』を使用しています。
『丸に加賀梅鉢』紋と「加賀梅鉢」紋の違いについて
今回のテーマである『丸に加賀梅鉢』紋は、「加賀梅鉢」紋を丸で囲った紋章です。家紋界隈において、元となった家紋を「丸い図形で囲う」という例は枚挙にいとまがありません。
かつては子が独立して別家を興す際、その紋所は(血縁を示す意図もあって)「生家の家紋を引き継ぐ」のが一般的であったようで、別種の紋章を据えるケースは稀といえました。また、主人からの紋章(の使用権)の贈与も珍しくなかったようです。
その際、実家や主家に対する配慮や遠慮から、紋所の混同を避けるケースも多く見られたようで、そうした時に「元の家紋」に対して『変形』を施すことで「繋がり」と同時に「区別」を表したといいます。
この「丸で囲う」は、そうした「変形」の中でも最も多く行われた手段のようで、この家紋もオリジナルの「加賀梅鉢」紋・もしくは「幼剣梅鉢」紋に変形を加えたことが大元となっている家紋というわけです。
『丸に加賀梅鉢』紋の家系のルーツは探れる?
江戸幕藩体制下のとくに大身の大名家は、主に他家との差別化による権威性の保持を目的に、独自の専用紋を作成して用いた例が多く見られましたが、前田氏の「加賀梅鉢」紋もこうしたものの一つであったとされます。
使用の開始が江戸時代以降と比較的新しい家紋でかつ、他家による使用がはばかられた紋章であるため、現在「加賀梅鉢」紋を使用している家系はもちろん、これに極めて近しい変形紋である『丸に加賀梅鉢』紋の場合も加賀藩主家やその特別な功臣に何らかのゆかりがある家系である可能性は否定できません。
ただ、先述のようにこの家紋は、「(丸に)幼剣梅鉢」に類いするものであるため、デザイン的には非常に似通ったものが存在しているのも事実です(「大阪天満宮」の神紋が代表的)。
そのため、ご使用の家紋がデザイン的には酷似していたとしても、必ずしも加賀藩主家・前田氏由来のもの(つまり(丸に)加賀梅鉢)とは限らないといえます。
通常、「使用の家紋が〇〇」という情報だけでは(家紋の文化・歴史の特性上)家系を遡ってのルーツの特定は難しいということを考えれば、家紋以外に根拠が乏しい場合は注意が必要だといえそうです。
以上が【丸に加賀梅鉢】紋の解説でした。『その他の梅紋』など、さらに詳細に知りたい方は↓こちらから。
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【丸に加賀梅鉢】紋のフリー画像素材について
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