家紋|藤(藤紋)の種類一覧・意味や由来の解説|家紋epsフリー素材の発光大王堂

家紋・藤について

家紋・藤のベクターフリー素材の高精細プレビュー(ラスタライズ)画像

家紋・藤(藤紋)は、宮廷・貴族文様から派生し、史上屈指の名門として知られる藤原氏との関連も深い、由緒正しい紋種です。

今回はその意味や由来、特に家紋・藤と藤原氏とのつながりや、また使用した戦国武将、家紋・藤の種類などについてもご紹介します。

フジと古代の人々との関係が『家紋・藤』誕生へとつながる

この家紋はその名の通り、ツル性の植物である『フジ』がモチーフとなったもので、(史料的にも信頼に足る)さまざまな史書・著作物に、その丈夫なツルが、建築・工芸・服飾の素材として大いに活用された様子が登場することから、古来から日本人に身近な存在であったようです。

また、美しく特徴的な花序を持つ "フジの花を鑑賞する風習" は、少なくとも平安時代には確立されていたようで、その様子は、一般的な平安貴族の日常として『源氏物語』に描写されています。

美しく枝垂れたフジ色の花序

同作中では「演出上の仕掛け」や「女性の魅力の例え」にもフジの巧みな利用が見られます。また『源氏物語』と並んで、平安文学の金字塔である『枕草子』には、フジの佇まいを「しなやかに枝垂れた花房と、深い藤色の色合いが上品」と評して、3度も作中に言及されています。

以上のようにフジは、一般の生活に密接していただけでなく、そのビジュアル的な価値の高さから、上流階級の覚えめでたい存在だったようです。

『家紋・藤』こそ "純" 和風の家紋といえる

当時の人々のこうしたイメージは、フジが "日本固有種" であることとも、少なからず関連があると考えられます。和の代表的植物として挙げられるもののうち、実は「菊」「梅」「牡丹」は、奈良から平安時代にかけて中国から伝来した外来種です。

それぞれ家紋の題材となったが、どれも外来種の植物

これらの植物に対する当時のイメージは、固有種のフジとは違って「憧れの中国から持ち込まれた最先端のイケてるステイタスアイテム」といった側面が強かったのではないでしょうか。

ちなみに「ソメイヨシノ」に至っては、江戸時代に交配から生まれた種だったりします。これらの背景を考えると、フジは当時から和の植物(しかも豪華絢爛!)の代表格としての地位にあったと言ってよいのでしょう。

『家紋・藤』は、数ある家紋の中でも最も由緒に優れたものの一つ

当時の "エスタブリッシュメント" である平安貴族のライフスタイルと、強い結びつきのあったフジは、彼らに特有の文化である、華やかな宮廷文様(※有職文様)の題材として取り上げられるようになります。

※『有職文様』…元は大陸由来の古代文様群で、日本へは仏教公伝を期に本格的に伝来。当時の日本人にとって、貴重でもの珍しいデザインのその文様は、最先端の流行として皇族・貴族に持てはやされた。

和の伝統文様のイメージが強いこれらの文様も大陸からの影響が強い

それら文様は徐々に日本風に変化し、華やかな貴族社会をビジュアル面から彩る、彼ら専用の文様群として発展。現代には和文様の基礎として伝わる。

フジはその名が、貴族社会で繁栄を極めた藤原氏を連想させる植物だったこともあって、有職文様の中でも重んじられる存在の一つであったとされています。文様としてのフジには、のちに家紋へと派生した「藤の丸」「藤巴」他、「藤立涌」などの種類が伝わっています。

家紋へと派生したデザインの元は文様からのものも多い

長い家紋の歴史の中でも、由緒と伝統に優れる「桐」「木瓜」「菱」などは、この有職文様から、徐々に家紋へと派生していったことで知られますが、家紋・藤もこれらと同様の流れを汲む紋種だったというわけです。

『家紋・藤』と関係?日本史でおなじみの藤原氏

家紋・藤の解説において、『藤原氏』との関連を指摘する説を目にすることは、少なくありません。では具体的に、藤紋と藤原氏にはどのような関連があるのでしょうか?そのあたりを藤原氏の簡単な概要とともに見ていきましょう。

あまり知らない!?藤原氏の繁栄の規模

「まず藤原氏とは何か?」を端的に説明すると、天皇を中心とした国家統治の根幹システムである『律令』の整備と発展に多大な貢献のあった氏族です。

中央集権体制が整って以降、初期の功績を足がかりに、都合、数百年の長きに渡って、強引かつ巧みな政治力で権力の中枢に影響を及ぼし続けた彼らは、結果的に朝廷の上級貴族(堂上家)の7割以上を一族で占めるほどの繁栄を実現しました。

堂上家の中でも上位家格は藤原氏の独占と言って良い状態

歴史上に名を残した人物を思い浮かべる時、藤原氏族の名が幾人も挙がるのもそうですが、それに加えてこの圧倒的な層の厚さも、藤原氏が日本史上屈指の名門と称される由縁といえます。

下級藤原氏の現実

ただ、それら上級ポストを世襲できるのは一人だけであるため、裾野の広い藤原氏は、枝分かれする支流・傍流家系をそれだけ大量に "生産" し続けることになります。

中央のポストには当然限りがあり、これら支流・傍流の家系は、代を経るにしたがって中級・下級貴族の扱いとなるため、藤原氏族だからといって、必ずしもいい思いができるわけではありませんでした。

藤原氏族に限らず、平安中期以降の公家社会では、出身家系の『家格の貴賤』により出世の上限が定まっていた、つまり平等な競争のできる環境ではなく、中・下級貴族の出の者の出世は、生まれながらにして絶望的といった状況でした。

出世の上限は生家の家格に依存していた

生き残りを賭けたサバイバルが、後のパワーシフトに結実

しかし、そのような生まれの者であっても、地方の首長(受領国司)の座を手にした者の中には、その権限を活かして、地方で荘園を開発→事実上の領主と化し、現地の有力者として君臨する道を選ぶ者も現れ始めます。

それら地方に下った『下級貴族』が、のちに在地武士や、軍事貴族(摂関家や皇族に属する家人として、軍事力を供した者たち。)となったのです。(地頭、守護大名、戦国大名といった地方領主(後の日本史の主役ともいえる)は、これらを出身とする者も多い。)

朝廷で大量に "生産" された傍流家系出身の藤原氏も、立場としては下級貴族であるため、受領国司への叙任をきっかけに地方へ根付く事で活路を見出そうとする者が現れます。

武士といえば、源氏や平氏のイメージが先行しがちですが、実はこのような "頭打ち" 予備軍を大量に抱える藤原氏系こそが、全国津々浦々に中小の在地武士を輩出し続け、中央(朝廷)だけでなく、地方にも分厚い裾野を形成していったのです。

日本史上最大の名門・藤原氏と『家紋・藤』の本当の関係

このような経緯から、(『武士系』藤原氏を含む)地方の武士団は形成されていったわけですが、平安末期頃から、彼らの間では『足利荘の源氏→足利氏』『葛西荘の平氏→葛西氏』といった具合に、所領の地名を『氏』に変わる『姓』として使用する流れが生まれます。

『武士系藤原氏』も、もちろんこの流れに沿う事になるのですが、他氏族が支配地名を直接『苗字』に用いたのに対し、彼らは地名などの要素に "藤" の字を絡めた「佐藤」「伊藤」「加藤」などを主に名乗るといった独自性を発揮したのは、見逃せない特性といえます。

『藤原』であることを誇った "傍流" 藤原氏

また、"氏" に変わり "苗字" を名乗る事が定着していった鎌倉時代以降は、公家社会と同じく、武士の社会でも家紋を据える文化が根付きますが、武士系藤原氏が主に家紋として用いたのは、フジ文様が紋章化された『藤紋』種であったといいます。

武士であると同時に、貴族の端くれでもある彼らにとって、五摂家などの上級貴族が持つ華やかさや権勢は、強烈な憧れの対象だったといいます。

そのため、その(所属下にある当該の上級貴族の)家人であること自体を誇りとし、所属する貴族に馴染みの深い文様を、そのつながりの証として家紋に据える程の動きが、一部、武士のあいだで存在しました。

※例を挙げれば、武田信玄で有名な甲斐武田氏の「菱」や、長きに渡って近江国を支配した六角・京極両氏の「四つ目」などが知られる。

そういった当時の雰囲気の中で、武士系藤原氏が、このように "苗字" や "家紋" にことさら "藤" を用いたのは、自らが「元を辿れば藤原氏」である事を示すためだったと考えられています。

つまり彼らにとっては、"同族" でありながら、憧れの感情が芽生えてしまうほど、"藤原の本流系統" は遠い存在となってしまっていたことの証であると同時に、それをアピールすることがステイタスとなってしまうほど、当時の藤原氏の権勢には、尋常ならざるものがあったということです。

『家紋・藤』とは、"過去" となった藤原氏の繁栄と、自身との関係性を示すための紋章

このような『武士系』の状況とは対照的に、『公家系』において苗字に藤が用いられた例は皆無であり、家紋においても上級貴族に属する95家のうち、わずか8家でしか、その使用の状況は認められませんでした。

※そのうちの3家は "五摂家" による使用ですが、これも当初は "牡丹紋" だったところを、後になって藤紋に改めたという経緯があるようです。

このような状況に陥る要因として、そもそも "『藤原』の名は地名を由来" とするものであり、植物のフジとは直接の関連がないという事実を、まず押さえておかなければならないでしょう。

そして、先にご紹介したように、フジが有職文様として重んじられたのは、あくまで「藤原氏本流を連想させる」という『外部的な視点』の意味合いからであって、当の藤原氏の側から見れば、フジは特別に思い入れのある存在ではなかったのではないでしょうか。

また、組織の固定化された公家社会においては、お互いの家系の成り立ちなどは周知の事柄であるため、家紋や苗字を用いてその出自をアピールする必要性に欠けたという側面も考えられるでしょう。

これまでご紹介してきた状況から考えるに、藤の家紋とは、時代を経るごとに過去のものとなっていく藤原氏のかつて繁栄と、自らがそこに連なる血筋であることの証とするための紋章だったといえるのです。

『家紋・藤』を利用した戦国大名のご紹介

ご覧のように、家紋・藤は武家によって普及の広まった家紋であり、その使用家系は確認されているだけでもかなりの数にのぼるようです。ここではその代表的な使用例を見てみましょう。

羽柴秀吉の軍師として知られる『黒田孝高(官兵衛)』が「黒田藤巴」を使用しました。この紋については、後世に使用に至る官兵衛のエピソードが伝わっていますが、この長政が公に藤原氏を名乗っているため、そちらを由来と考えるべきかもしれません。

伊達政宗の重臣として活躍した『片倉景綱』が「ばら藤に井桁」を使用しています。この紋は、藤原氏末裔として伝わる片倉氏の専用紋といわれています。

徳川家康の重臣『大久保忠世』の「大久保藤」や、秀吉の家臣で甲斐24万石を領した『加藤光泰』の「上り藤」、代表紋は三引両の『吉川元春』も、吉川氏が藤原氏の末裔とされることから「下がり藤の内に三引両」など、家紋・藤の使用で知られています。

その他にも、『後藤基次(又兵衛)』『加藤嘉明』『内藤興盛』など、有名武将による使用の枚挙にいとまがない事から、かつて藤原氏にゆかりの武家が、いかに多く存在したかがお分かりいただけると思います。

江戸時代においても家紋・藤を使用する武家は、大名・旗本に限っても約170家に及んだと伝わっています。現代において家紋・藤が、『五大家紋』の筆頭を争うほど広く普及している要因は、このあたりからも垣間見れるのではないでしょうか。

以上が家紋・藤の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

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