【抱き茗荷】の意味や由来は?家系は?著名な使用者は?

抱き茗荷

抱き茗荷の素材。高精細フリー画像

家紋・抱き茗荷は、謎の神・摩多羅神のシンボルであり、また天台宗・出雲大社・日光東照宮などと深い関連がある事で知られます。

今回は、抱き茗荷紋の誕生から広く普及した経緯、またその意味や由来をご紹介しています。

定番家紋の割に謎の多いことで知られる抱き茗荷紋

この紋章は、代表的な香味野菜の一つとして知られる『ミョウガ』をモチーフにした家紋とされますが、その意味や由来には、ミョウガが元来持つ "植物的な特徴" とは、あまり関連がありません。

香味野菜のミョウガは抱き茗荷紋のモチーフとなったとされるが…。

一般的な『植物紋』のあり方でいえば、『松』なら「年間を通して常緑」、『片喰』や『沢瀉』なら「生命力が強く駆除が難しい」といった特徴に縁起が見い出され、家系の存続や発展を願って家紋に据えるといった例が一般的であることと対照的だといえます。

またそのデザインも、一見『ミョウガの花穂』部分を象ったように見えますが、実際には "家紋の黎明期" より存在し、名門・大友氏の代表家紋として、中世期の九州において、絶大な権威を誇ったことで知られる『杏葉紋』から変化したものと言われています。

抱き茗荷紋は杏葉紋のデザインをもとに作られた家紋ともされる。

数ある家紋の中でも、このような状況は珍しい部類といえ、抱き茗荷がその普及率・知名度の割に "謎の多い家紋" といわれる要因の一つとなっています。

抱き茗荷の謎を解くカギ?摩多羅神とはなにか

「茗荷紋の持つ意味や由来とは何か?」そして「それはどこから来たものか?」をご紹介するには、かつては天台宗の守護神として認知と信仰を集め、しかし現在では忘れ去られた存在となってしまった『摩陀羅神=またらしん』との関連が、非常に重要なものとなります。

異国の神が仏教尊格へ

摩多羅神とは、元はインド土着の神で、『慈覚大師・円仁』(第3代天台座主)により比叡山・延暦寺に勧請(神仏の分霊を請い迎えること)されたと伝わります。

円仁には、遣唐使として入唐した過去がありますが、その帰国の船中にて「われを敬い祀らなければ、『極楽往生』の願いは達せられぬであろう」という摩多羅神の神託が下ったといい、これを受けて円仁は、比叡山に『※常行堂』を建立の上、阿弥陀如来像の『後ろ側(後戸=裏口)』にこの神を祀ったといいます。

摩多羅神が最初に勧請されたと伝わる比叡山・延暦寺の常行三昧堂。

※常行堂(常行三昧堂=じょうぎょうざんまいどう)とは、阿弥陀如来を本尊とし、90日の間、阿弥陀仏像の周りを回りながら、念仏を唱える修行(常行三昧行)を行うための(天台教学に特有の)仏堂をいい、日本における阿弥陀信仰の原点ともされます。

この時点までの摩多羅神についてわかることは、『極楽往生』思想に深く関わり、常行堂の裏口の守護とされたことから、『阿弥陀如来』と表裏一体の存在として崇められていたということです。

しかし、摩多羅神に対する解釈は一定ではなく、時代によってさまざまな移ろいを見せることになります。

摩多羅神とミョウガとの関係は?

ほどなくして摩多羅神は、天台教学そのものとの結びつきが深まっていったようで、『一心三観』や『一念三千』といった、天台宗の "真髄" たる奥義を秘密裏に伝授する儀式である『玄旨帰命壇』の本尊としても祀り上げられることになります。

日光山・輪王寺に伝わる『摩多羅神二童子図』には、不気味な笑顔で鼓を打つ老人の姿の摩多羅神と、その手前の左右には、"笹" と "ミョウガ" を肩に担いで舞う二人の童子が描かれています。

ミョウガの成長した茎を持って儀式を行ったという。

そして、この奥義の伝授を受ける弟子は、『左手にミョウガ』を、『右手に笹』を持って儀式に臨むという決まり事があるようで、『摩多羅神二童子図』に描かれる構図こそが、一般的な摩多羅神の形象といえます。

なぜ茗荷紋がそのシンボルとされるのか?

儀式に用いるミョウガと笹の意味するところは、天台教学において重要な要素を占める『瞑想』の基礎にして極意である『止観』にあるとされています。

止観に関しての説明は、少し専門的すぎるため、ここでは避けますが、天台宗がこの止観の境地をいかに重要視したかは、開祖・最澄が比叡山に開いた草庵(のちの延暦寺・根本中堂)を『一乗止観院』と名付けたことからも窺い知ることができます。

若き最澄がのちの延暦寺・根本中堂に名付けた最初の名は一乗止観院と伝わる。

茗荷紋は、摩多羅神とその信仰のシンボルとして使用されるなど、この神と深く結び付いていますが、その由来は、どうやらここにあるといえそうです。

天台宗とともに発展を見せる摩多羅信仰

摩多羅神の存在は、天台宗総本山の延暦寺だけに限らず、各地の天台宗門の寺院のうち、修行道場として常行堂を持つ寺院を中心に、全国的に広がります。

平泉の『毛越寺』、茨城県の『円妙寺』、栃木県の『輪王寺』、東京の『寛永寺』、鳥取県の『大山寺』、島根県の『鰐淵寺』と『清水寺』などが知られています。

そして、もともと比叡山の地主神であり、天台宗により、宗門および延暦寺の守護神とされた『山王権現』と同一視されたことから、やがて宗門の守護神とも目されるようになったようです。

神道の主要施設である『出雲大社』に摩多羅神!?

また、『※神仏習合』思想により、天台宗の寺院を『神宮寺(別当寺)』に持つ神社にも摩多羅神とその信仰は影響力を及ぼします。

※『神仏習合』…外来宗教である仏教と固有宗教である神道が統合されていた状況を指す。近代に至るまでの殆どの期間において、概ね仏教が『主』で、神道が『従』という関係だった。

やがて "神道の神々は、仏教尊格(=本地)が仮の姿で現出(権現)したもの(=垂迹)" とする『本地垂迹』説が起こった。『神宮寺(別当寺)』は、当該の神社の管理を司った。

この関係で最も知られる例は、『出雲大社』(別当寺は出雲国の天台宗寺院『鰐淵寺』)です。出雲大社は、天台宗の強い影響により、その主祭神が摩多羅神と同一視される解釈も存在したことから、摩多羅神を祀っていた過去が存在するようです。

摩多羅神は神道にも影響を及ぼしていた。

江戸幕府と結びつく天台宗

8世紀の立宗以来『日本仏教の母山』として、宗教界だけでなく日本社会にも大きな影響を及ぼし続けた天台宗ですが、武士階級と鎌倉仏教の勃興に加え、織田信長による『比叡山焼き討ち』の影響もあって、中世の終わり頃には、その宗勢は衰退傾向にあったといえます。

しかし、天台宗の高僧・『南光坊・天海』が、徳川家康を始め、初期の幕府将軍のブレーンとして影響力を強めたことから、そのお膝元である関東を中心に、天台宗は再びその宗勢を取り戻すことになります。

徳川三代のブレーンとして強い影響力を発揮した南光坊天海。

「日光東照宮に茗荷紋」のカラクリ

幕府内において、隠然たる権力を手にした天海は、家康の死後、その祭祀に関わる一切を主導したといいます。

家康は『東照大権現(本地仏・薬師如来)』として、日光東照宮に祀られたことで知られますが、その配祀神(主祭神と共に祀られる神のこと)には、天台宗の守護神『山王権現』と、"摩多羅神" が配されることになります。

日光東照宮には家康を始め3柱の神が祀られた。摩多羅神はその一柱。

東照宮の所在する日光山内には、その建立以前から、天台宗寺院である『日光山・輪王寺』が存在し、鎌倉幕府や東国武士の信仰を集めていました。この輪王寺には常行堂も存在したことから、古くから日光と摩多羅神につながりはあったわけです。

輪王寺には古くから摩多羅信仰が根付く。

しかし、新たに家康が日光山に勧請される際、改めて摩多羅神(と、山王権現)がその配祀に招かれたのは、当時の天海の影響力と天台宗の勢いの大きさが故に他なりません。

現在でも、東照宮の例大祭に使用される3基の神輿のうちの1基に(太鼓などの付属の神具も含めて)茗荷紋が刻されているのは、それが摩多羅神の鎮まる輿であるからです。

抱き茗荷と天台宗と摩多羅神

ここまでのご紹介でわかることは、摩多羅神とその信仰の発展は、天台宗とともにあったといえますし、そして同時にそれは、「そのシンボルである抱き茗荷紋の広がりを意味することになる」ということです。

実際、現代における抱き茗荷は『十大家紋』の一つとしてその名を挙げられるほど広く普及しているのです。

茗荷紋の定番家紋化への経緯

それではここからは、摩多羅神のシンボルとして知られた抱き茗荷紋が、いかにして多くの人々に使用されるようになっていったのかを具体的に見てみましょう。

庶民層への家紋の流行

まず最初にその前提として、「江戸時代に入ると、武士を始めとした特権階級以外での苗字の公称が認められなくなったことから、一般庶民の間で『家』の識別に家紋を利用するという風潮が広がった」という背景を押さえておかなければなりません。

これにより、一般庶民にも新たに家紋を持つ必要性が生じたため、武家のような(一握りの)支配階層だけでなく一般階層(多数派)へも、その普及が急速に進んでいくという状況に至ったのです。

この一大ムーブメントにあって、新たに家紋を選択する庶民層から高い人気を誇った家紋と、現在知られている『定番家紋』とは、概ね一致を見るわけですが、それはこの茗荷紋にも当てはまります。

抱き茗荷は天台宗や摩多羅神への信仰の証?

抱き茗荷が高い人気を獲得した要因のまず一つに、日光東照宮の創建が挙げられます。

日光東照宮の創建を契機に抱き茗荷の注目度も高まった。

徳川家康がその没後に、日光の地で神格化されたことによって、日光山参詣は盛況を博したといいます。その影響から、配祀神である摩多羅神、ひいてはそのシンボルである抱き茗荷の認知度は、大幅に上昇したであろうことは想像に難くありません。

また、『東叡山・寛永寺』が、徳川将軍家の祈祷寺・菩提寺となるなど、幕府とのつながりを背景に、天台宗が再びその勢いを取り戻したことも大きいでしょう。

抱き茗荷と同じく、定番家紋として知られる『蔦紋』が、大きな普及を見せた要因は、徳川8代将軍・吉宗が替え紋として好んで使用したことから、その威光にあやかりたいと考える人々の間で人気が高まったことです。

将軍吉宗の好んだ替紋。これまでの蔦紋は、その由緒・由来とも比較的地味な存在だった。

抱き茗荷も "徳川将軍家と宗教上の関係が深い天台宗" に由来の神紋なわけですから、ある程度、庶民の支持を受けても不思議ではありません。

また、全国各地の天台宗寺院や、出雲大社を始めとした摩多羅神と関わりの深い神道施設によって、古くから摩多羅信仰が育まれてきたという側面も、抱き茗荷普及の要因に挙げられるべきでしょう。

語呂合わせによる縁起担ぎも家紋選びの重大な要素

さらに、茗荷紋の『みょうが』の発音が、仏教用語の『冥加=みょうが』に通じるという解釈から、縁起をかついで家紋に据えたというケースも伝わります。

冥加とは、知らず知らずのうちに神仏から賜っている『目に見えない加護』のことをいい、反対に『目に見える加護』は『顕加=けんが』といいます。ただ、一般的な用語としての冥加は、冥・顕の区別をしない事がほとんどであるため、この場合は単に「神仏の加護を願って」の選択と見るのが自然でしょう。

以上のような要因が、江戸時代の庶民からの高い人気に結びつき、またそのことが今日における茗荷紋の広い普及につながっていったと考えられます。

抱き茗荷はかつて繁栄した摩多羅信仰の名残りなのか?

しかし、天台宗との深いつながりにより、幅広い知名度を獲得していたはずの摩多羅神が、現在ではあまり知られない存在となってしまったのはなぜなのでしょうか。

それはこの神を本尊とした『玄旨帰命壇』が、愛欲貪財のみだらな邪教と化したことで『禁教』処分を受け(江戸時代中期頃)、それ以来、この秘密の伝法と摩多羅神はタブー視、関連する典籍もことごとく焚書の憂き目にあったことにあると見られます。

そしてこれが、茗荷紋についてのはっきりとした詳細が伝わっていない要因の一つといわれているのです。

以上が抱き茗荷紋の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

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「抱き茗荷」のベクターフリー素材のアウトライン画像

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