家紋 橘|意味 由来の解説。ルーツ 家柄 苗字 武将なども網羅|家紋素材の発光大王堂

家紋「橘」の高精細フリー画像。

家紋・橘(たちばな)は、「源平藤橘」の一角として名高い橘氏の他、彦根藩主・井伊氏を始めとした数々の名門武家による使用で知られる橘紋の一種ですが、今回はその意味や由来の他、苗字や地域、武家や寺社などの著名な使用例などについてもご紹介しています。

この家紋は、ミカン科の常緑樹で、古来より日本に自生している固有の柑橘類である『タチバナ』の実と葉を象った紋章です。

結実した果実は、半年に及ぶ長期間、枝に留って香りを放ち続けるといい、また『常緑』樹の持つ「紅葉・落葉しない」という特徴も合わせて『常(つね)なるもの(無常ではない・永久不変)』に通じることから、古来より縁起物と目されてきました。

家紋・橘のモチーフとなったタチバナのイメージ画像

果実は酸味が非常に強く、生食には向かないとされますが、「橘は菓子の長上にして〜」(元明天皇)「橘は 実さへ花さへ その葉さへ〜」(聖武天皇)などとあるように、古代・中世期当時は「嗜好品」としての価値も上々であったようです。

また果皮・果肉ともに薬効が認められることから、薬用(生薬)としての側面からもよく知られた存在でした。

家紋・橘は、タチバナと人々との長く深い関わりが生んだ紋章といえる

以上のようにタチバナは、古来より人々と関わりのあった植物ですが、その具体例の一つに古事記と日本書紀のそれぞれに収められている『たぢまもり』の説話が挙げられます。

その内容は『たぢまもり=田道間守』という男が、『※常世の国』から『ときじくのかぐのこのみ=非時香果』なる不老長寿の霊薬を持ち帰るというものですが、この「非時香果」の表記からその実態を察するに「時を超越して香る果実」となり、記紀には「これはタチバナのことである」と記されています。

常世の国のイメージ画像

※常世の国…とこよのくに。日本神話において「永久不変の理想郷」または「死後の国」として登場する海の彼方の異世界。

さらに「タチバナ」という名も(「たぢまもりの持ち帰った花」ということで)この説話にちなんでいるとされます。

名門・橘氏の誕生にもタチバナが深く関わっていた

日本史上でも特に繁栄し、広くその血脈を広げた4つの氏族(四姓)を総称して『源・平・藤・橘』といいますが、その一角を占める『橘氏』の成立の契機となった出来事にもこの植物のタチバナが深く関連しています。

『橘』という姓は、(奈良時代前期頃の当時)女性官吏の筆頭として朝廷に強い影響力を及ぼした『県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)』という上級女官(極位・正三位)が、『※元明天皇』から宮廷に対する尽力と功績を讃えられて賜ったものです。

橘紋の由来と深い関わりのある元明天皇の画像

※元明天皇…げんめいてんのう。天智天皇(38代)の皇女(阿閇皇女)で天武天皇(40代)の皇子の正妃となる。子の文武天皇(42代)が25歳で崩御し、孫の首皇子(聖武天皇)が幼年であったため、第43代の皇位につく。

その際の元明天皇の詔は、『黄金色に輝く美しい果実にして味は随一』・『霜雪を凌いで茂る枝』・『寒暑を問わない常緑の葉』と【その特性をつぶさにとり上げてタチバナ(橘)の素晴らしさを讃えた上で】その名を姓として授けるという内容であったといいます。

紫宸殿正面の庭木にサクラと共にタチバナが選ばれたのは何故?

また、平安京・内裏の『右近(うこん)の橘』の存在も(当時の)人々のタチバナに対する関心を裏付けるものといえそうです。

右近の橘とは、紫宸殿・南庭の正面西側に植えられたタチバナのことであり、同じく正面東側の『左近(さこん)の桜』とは対になる存在で、紫宸殿・正面の左右にこの庭木を配することは、平安京造営当時から続く習わしといいます。

紫宸殿南庭・西側のタチバナの画像

平安京造営以前の内裏の位置には、さる橘姓の高官の邸宅(または「※秦(はた)氏」の邸宅とも。)が存在していたとされ、当初の右近の橘は、その邸宅に植わっていたタチバナをそのまま引き継いだものとも伝わります。

秦氏の代表的人物である秦河勝の画像

※秦氏…はたし。平安京遷都の以前に、(いわゆる)「洛中」の北部にあたる地域を支配下に置いていた有力帰化氏族。

(この「引き継ぎ」の真贋は別にして)いずれにせよ、「内裏の正殿」たる紫宸殿の前庭に「タチバナ」が植わり、慣習化していった背景には、(その特性や、記紀の説話から)「不老長寿」や「常なるもの」をあらわす縁起物として、当時の社会から広く認知されていた事実が関係することは間違いなさそうです。

華やかな宮廷社会に深く根付いていたタチバナ

その他にもタチバナは、「万葉集」を始めとした和歌集や「源氏物語」「枕草子」「伊勢物語」といった当時の主要な文学作品にたびたび登場し、とくに万葉集には、(判明している約3800首余りのうち、5番目に多いとされる)約70首もの(タチバナを題材とした)作品が収められているそうです。

以上のような具体例からタチバナには、家紋化のはるか以前(家紋の誕生は平安後期以降)から一般に認知され、とくに「朝廷・貴族社会」に強いつながりがあったことが分かります。

社会的な認知の高さから文様となり、そして家紋へ

かつて、朝廷の貴族文化を華やかに彩る役割の一端を担った文様(衣装・調度・建築に用いられる図柄)は、彼らや社会に(馴染みや親しみといった)深い関わりを持つようになった対象がその題材となってきました。

具体的には「桐」「柏」「鷹の羽」「木瓜」「蔦」などが例に挙げられますが、これらはどれもその存在に特別な由緒や特徴が認められ、貴族社会に特別視されたものばかりです。

橘紋と同じく伝統のある家紋の例

橘紋は『常(永久・不変)』の吉意が込められた吉祥紋

タチバナの場合は、(上述のように「神秘性」や「瑞祥」といった観点で)貴族社会にも身近な存在として定着していたことから、やはり平安時代ごろには図案化され、日本固有の吉祥文様としてさまざまに用いられたといいます。

家紋(特に黎明期から現代まで伝わる伝統家紋)は、上記に挙げた(「桐」「藤」…など)「由緒と格式を備えた文様群」が元となって誕生したものですが、それはこの家紋も例外ではなく、橘はかなりの古参種に挙げられる伝統家紋といえます。

橘紋は日本史上でも有数の名族にゆかりある証?

実際にこの紋章を使用した氏族でまず挙げられるのは、先述の通り「源平藤橘」の一角にも数えられる『橘氏』でしょうか。

源平両氏、藤原氏に比肩する名門(とされる)『橘氏』の概要

橘氏は、聖武天皇在位下の8世紀ごろに、国政を主導するほどの栄達(極位:正一位・極官:左大臣)を為した『橘諸兄』を輩出したことで知られます。

橘氏の祖である橘諸兄は県犬養三千代の子

しかし、その直近の後継であった「橘奈良麻呂」が、藤原氏(仲麻呂)排斥の失敗(橘奈良麻呂の乱)により失脚すると、以降は散発的に公卿を輩出する程度となり、貴族としては中・下級のグループに没落してしまいます。

武家では、「藤原純友の乱」で活躍し、筑後橘氏の祖となった『橘公頼』、いわゆる「源平の戦い」で活躍し、小鹿島・渋江・牛島・中村・中橋、各氏の祖となった『橘公長・公業』親子、「橘長谷麻呂」の後裔(諸説あり)で近江国・甲賀郡の豪族である『山中氏』などが知られます。

さらに「承平天慶の乱」で活躍し、後裔に「楠木氏」を出した『橘遠保』も橘氏族と伝わりますが、これらは同じ4姓に挙げられる「源氏」「平氏」「藤原氏」各々の系統の(公家・武家を問わずの)繁栄・発展ぶりと比較すると、明らかに物足りないというのが正直なところです。

橘紋には橘氏を示す意味も含まれる

橘氏族やその(一部)後裔がこの紋章を用いるようになったのは、やはり橘氏の成立そのものが(上述の通り)植物のタチバナに深く関わっていることが要因といえるでしょう。

しかし、それ以上に(家紋文化が成立する12世紀頃には、すっかり家勢の細っていた彼らが)史上でも名の通った「橘三千代」や「橘諸兄」へと遡る出自や縁があることを示し、強調する狙いがあったようにも思えます。

橘紋の著名な使用例

橘氏以外によるこの紋章の使用の著名な代表例といえば、やはり徳川家康による覇権の掌握に著しい貢献があったことで知られる『井伊氏』でしょうか。

井伊氏の代表家紋のイメージ画像

近世武家の名門「井伊氏」の概要

井伊氏は、藤原北家・冬嗣(鎌足のひ孫)の後裔を称し、平安時代後期ごろから遠江国・井伊谷の豪族層(国人領主)として長らく存続していた家柄でした。

しかし、「徳川四天王」の一人に数えられる(戦国のファンにもおなじみの)【第20代当主・井伊直政】が徳川家康に召し出されると状況は一変、直政は「井伊の赤備え」を率いて抜群の戦功を重ねて家康の征夷大将軍の任官に貢献します。

橘紋種の使用で有名な井伊氏の代表的人物である井伊直政のイメージ画像

幕藩体制下でも「徳川譜代・筆頭」として近江・彦根藩に封ぜられると、史上でも名高い「安政の大獄」を主導したことで知られる「井伊直弼」を始め、5人もの『大老』も輩出するなど、幕政に重きをなした近世屈指の名門武家ともいえる氏族です。

井伊氏の橘紋の由来。橘氏との関係は?

井伊氏によるタチバナの紋章の使用の由来は、井伊氏成立の逸話に関係したものであって、(彼らが藤原氏の後裔を公称していることからも分かるように)橘氏との血縁的な繋がりなどから来ているわけではありません。

井伊氏の初代にあたる「井伊共保」は、元は捨て子で、何処かの寺社で養育されていたところをときの遠江国司「藤原共資」に見初められ、婿養子として迎えられると、家督相続ののちに故地の井伊谷に本拠を構え「井伊氏」を称したといいます。

この井伊共保が拾われた(「生まれた」とも)場所は、井伊谷の八幡宮の井戸であったといい、その井戸に赤子(共保)とともにタチバナの実があったとされ、これを産衣の文様としたことが、戦国大名・井伊氏の『彦根橘』の紋所と「井の字」の旗印の由来とされています。

井伊氏が橘紋を使用する由緒となった井戸の画像

さらに橘紋の使用例をご紹介

近江国甲賀郡・鈴鹿山麗の山中村をルーツとし、室町時代以降は近江守護である六角氏の麾下にあって甲賀郡でも屈指の国人領主であった「山中氏」と中世を通じて肥前国杵島(きしま)郡・長島荘を根拠地としたことで知られる「渋江氏」は、両家とも橘氏の後裔と伝わり、ゆえに橘紋の使用家であったといいます。

なお渋江氏は、この紋章を神紋とする(同じく)肥前国杵島郡の潮見神社を氏神としたこととも関連があったかもしれません。

土佐国・安芸の国人領主である「安芸氏」は、蘇我氏を出自とする一族と伝わりますが、橘氏後裔の異説もあり、彼らによる橘紋の使用(他に「三つ割り剣花菱」も使用)はそれ故のものともされています。

桓武平氏・大掾(だいじょう)氏の一流で、中世期全般にわたって常陸国真壁郡で勢力を保ち、"鬼真壁" と史上でも名高い戦国期の猛将「真壁氏幹」を輩したことでも知られる「真壁氏」も橘紋の使用家といわれます。

山陰地方の武将で、主筋であった尼子家再興に執念を燃やしたことで知られる「山中鹿介(幸盛)」も(「目結い紋」使用の他に)橘紋の使用が伝わりますが、上記・橘氏流の山中氏とは別系統であり、鹿介の山中氏は出自に不明な点が多いようです。

橘紋の使用で知られる山中幸盛のイメージ画像

また、江戸幕藩体制下の大名・旗本にも『橘紋(種)』の使用例は多く、大名・旗本合わせて90家余りに使用されたといいます。

神紋・寺紋としての橘紋

京都府八幡市の「石清水八幡宮」も神紋に(三つ巴紋の他)『橘』紋を使用する神社です。これは八幡神をこの地に勧請した「行教」律師の御紋が橘であったためとも、実際に八幡宮建立を監督した木工寮権允「橘良基」に由来するともいわれています。

橘紋を神紋に使用する石清水八幡宮の画像

京都市右京区の「梅宮大社」も『橘』紋が神紋です。この神社は橘氏の氏神とされています。

その他神社では、奈良県北葛城郡「廣瀬大社」と橿原市「天高市神社」・天理市「大和(おおやまと)神社」、寺院では、奈良県明日香村の「橘寺」などが橘の紋章を使用しているようです。

このように橘紋は、(血縁的な)出自や階級の種別(武家や寺社など)を問わず、実に多くの系統に使用された紋章であったことが分かります。

橘紋の普及の要因とは?

家紋はその誕生以来、「公家」「武家」「社家」「寺家」の特権層に特有の慣習・文化でしたが、江戸時代になると庶民階級にもその普及が始まります。

江戸幕府による厳格な身分制度の導入により、一般庶民には苗字の公称が許されなくなった背景もあり、家の識別に家紋を用いるという社会通念が発達していったと見られています。

商人に代表される屋号紋や、粋な男女の "洒落紋" である比翼紋、さらには(江戸時代の身分制度においては比較的身分の低かった)遊女や役者・噺家までもが自由に家紋を決めて使用するなど、家紋文化が一気に花開いて一大ブームが巻き起こったといいます。

男性性を示す日向紋と、女性性を示す陰紋との組み合わせ。

そうした状況や通念に適応する必要に迫られて、にわかに家紋を導入した家々も少なくなかったことを考えれば、庶民階級の家紋の由来にいちいち特別な謂れが存在するケースがどれほどあったでしょうか。

大抵は、単に「縁起担ぎ」だの「形が気に入った」だのであったり、お公家やお武家などの「由緒正しい紋所」や(信仰上のつながりから)氏神・檀那寺の「ありがたい紋章」にあやかったり、村役人や住職といった地元の有力者に相談したりといったケースがほとんどであったとみられています。

そんな中にあって、この橘紋は「橘氏」にゆかりの紋章であり、大名・旗本だけでも90家余りに使用されるなど武家にも大きな広がりを見せており、またそもそもは永久不変をあらわす縁起の良い吉祥文様でもあります。

そのことを踏まえれば、当時の多くの庶民の紋所選択の対象として浮上し、そして十大家紋に挙げられるほどの普及を遂げた事実にも頷けるというものではないでしょうか。

橘紋も含まれる十大家紋の一覧画像

橘紋の使用家系のルーツは?

特権階級による使用が主だった近世以前の家紋は、それぞれの家系的な出自を端的に示し、また結束を固める役割(土岐一族の「桔梗」・武田一族の「菱」・菊池一族の「鷹の羽」など)を果たしていました。

かつては出自の証となっていた家紋の一例

しかし上で触れたような江戸期の家紋文化の急拡大以降は、新規の一般庶民による血縁的な連続性とは無関係な使用が急増したことにより、家紋のこうした側面は失われてしまうことになります。

そのため、現代においては「使用の家紋が〇〇」という情報のみでは、家系を遡ってのルーツの特定は難しいといわざるをえませんし、この「橘」紋の場合は、十大家紋の一つである橘紋種にあってその基本形ともいうべき代表的な紋章であるため、それはなおの事といえそうです。

橘紋の使用家系の苗字は?地域は?

「使用の多い苗字」に関しても上述の通り、橘紋は十大家紋・橘における代表的な紋章ですから、使用家系も多数にわたっており、この家紋の使用家系に特有の苗字というものは特に存在せず、実に多様な苗字が見られるようです。

普及の多い地域については、和歌山県、高知県の他、奈良県、広島県、長崎県などに特によく分布しているようです。

以上が【橘】紋の解説でした。橘紋についてさらに詳細に知りたい方は↓こちらから。

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【橘】紋のフリー画像素材について

【家紋素材の発光大王堂】は、家紋のepsフリー素材サイトです。以下のリンクからデータをダウンロードして頂けます。「家紋のフリー画像を探しているけど、EPS・PDFの意味がよくわからない」という方は、ページトップの家紋画像(.png形式・背景透過・100万画素)をダウンロードしてご利用いただいても構いません。

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