上がり藤(上り藤)の意味や由来を徹底解説!家系やルーツを辿るヒントに?|家紋epsフリー素材の発光大王堂

上がり藤

家紋・上がり藤(上り藤)の素材。高精細フリー画像

家紋・上り藤は、華やかな貴族文様にデザインのルーツを持つ、由緒正しい家紋です。さらに日本を代表する名門家系・藤原氏との関わりも深い事で有名です。今回は、そういった何となく知られている部分を具体的に掘り下げて、徹底的に解説してみました。

家紋「上がり藤」(あがりふじ)、または「上り藤」(のぼりふじ)とは、日本の固有種で、マメ科フジ属に分類されるツル性の植物「フジ」をモチーフにデザインされた「藤紋」種の一つです。その丈夫なツルは、さまざまな工芸品の素材として用いられたといいます。

しかし、それにも増して特徴的なのは、最大80cmにまで到達すると言われる、垂直に垂れ下がった薄紫色の華美な花序で、古来から現代において、観賞用途に重んじられた植物としても知られています。

現代において五大紋(または十大紋)にも挙げられるほど広く普及している藤紋種ですが、その中でも、この特徴的に枝垂れた花序を、端的に捉えたデザインである「下がり藤」と呼ばれる家紋が、その代表的な種類とされていますが、この「上がり藤」の系統も全国的によく見られるものです。

今回はそんな家紋・上がり藤の意味や由来について詳しく紐解いてみたいと思います。

フジは日本文化に大変深く根付いた存在。

家紋・上がり藤の意味や由来に触れていくには、まず、そもそもの題材となったフジと、そのフジを家紋の題材とした、かつての日本人との関連について見ていかなければなりません。

かつては実用面で欠かせない生活資材だった。

フジとかつての日本人との関わりは、朝廷を中心とした中央集権国家としての骨格が固まり始めた、奈良時代の編纂である「古事記」や「万葉集」、また、平安時代の貴族社会の様子を窺い知ることが出来る「枕草子」や「源氏物語」といった書物を通して確認する事ができます。

まず、日本古来の歴史や神話が記された「古事記」には、フジのツルから取り出した繊維で、衣服や靴を編むというエピソードが登場したり、日本最古の和歌集である「万葉集」には、フジを題材とした26首の和歌が収録されているなどの事から、当時の我々の生活に、フジは欠かせないものであった事が推察されます。

平安文学の2大作家の著作にも登場。

またフジは、平安時代屈指の文学者である「清少納言」特有の審美眼にもかなったようで、その代表的な著作「枕草子」には、随筆調に著された「〜と言えば○◯」といった形式の中に、たびたび取り上げられている事が確認できます。

さらに、当時の習慣や風俗を作品設定に据え、貴族社会のリアルなサクセスを描いた「紫式部」の長編小説「源氏物語」にも、作中の主要場面の舞台が「フジの(花見の)宴」であったり、重要なセリフがフジに関するものであったりと、さまざまなシーンの演出にフジが登場しています。

これらの両作品からは、上流階級を中心に、フジの花の鑑賞はごく当たり前の風習であった事や、また、女性の美しさを表現する例えに用いられるなど、フジは「美しいもの」のある種の象徴として捉えられていた事が読み取れます。

このように、これらの文化・芸術作品を通せば、いかにフジがその実用性や芸術性で、古来より深く日本文化に根付いていた植物であるかがわかるのではないでしょうか。

フジこそが、本当の「日本を代表する和の植物」と言える?

現代の感覚においてもフジは、どちらかと言えば「和」のイメージの強い植物として認知されているという事ができると思います。しかし実際には、より「和」を感じさせる植物として候補に挙がりそうなものが、フジの他にもいくつかあるというのが正直な感覚ではないでしょうか。

しかし現代においては、いかにも「和の植物」として認知されているかの如きイメージであっても、「実は外来種でした。」という植物も珍しくはありません。その代表的な例として「菊」「梅」「牡丹」などが挙げられます。何と、これらはいずれも奈良時代前後に中国より伝来したものなのです。

また、「菊」と双璧をなす程の、由緒正しい紋章のモチーフとされる「桐」は、日本在来種であり、古来より神聖な植物として、為政者に重宝されてきた歴史がありますが、肝心のその「神聖な植物としての由来」が、古代中国の鳳凰伝説に基づくものであったりします。

そして、現代では「お花見」の代名詞となっている「ソメイヨシノ」も、伝統的な和のイメージが強い植物ですが、実はこれも江戸時代の後期に、交配により生まれた非常に歴史の浅い品種なのです。

翻ってこのフジは、神話の(とされる)時代から日本人との関わりが深いものです。さらに最初に述べたように日本在来の固有種でもある事を考えれば、実は本当の意味での「和の植物」と言ってよく、その事がなおさら、かつての日本人とフジとの結びつきを強めたといえるのではないでしょうか。

フジは、上流文化の一端を形成する重大要素「文様」の題材へ。

このようにフジは、当時の人々の生活に深く根ざしていただけに、題材として取り上げられたのは、歴史書や詩書、文学書の分野だけにとどまりません。

見た目にも鮮やかなフジは、綺羅びやかな公家文化の形成に欠かすことのできない、重大な要素である「有職文様=ゆうそくもんよう」の一つとして、服飾・調度・建築の分野に取り入れられ、重用されるようになります。

藤紋種を始めとして、「木瓜」や「菱」などの幾つかの家紋は、こうした「有職文様」から家紋へと発展していきました。

有職文様とは何か?その始まりは、畏怖と憧れの象徴からもたらされた。

有職文様とは、オリエントの地で誕生したとされる「古代文様群」がその発祥とされ、大陸各地を伝播しながら中国へと到達し、日本へは唐風文化の一部として伝わったものです。

古墳時代後半の遣隋使の派遣以降、日本では、隋・唐文明の模倣・アレンジが、あらゆる分野において活発化しており、もちろんそれは、この古代文様群を始めとした文化面についても同様でした。

これはそもそも、当時の隋・唐と日本の文明度には、如何ともしがたい格差が存在していたためです。具体的に言えば、古代中国において、「鉄器」と「陶磁器」が生産されていた頃、我らが日本は、「磨製石器」に「弥生土器」の水準であったといった具合です。

このような背景から、日本にとって当時の中国は、あらゆる面において偉大であり、憧れの感情を抱く者も少なくなかったようです。それは丁度、明治期の日本人が欧米人に抱いたそれと、同種のものと言えるでしょう。

そんな「憧れ」の中国から伝わった珍しい文様群は、当時のインテリやエスタブリッシュである上流貴族に持て囃されました。そのような(日本から見て)先端文化を生活の中に取り入れる事は、彼らにとってある種のステータスであったに違いありません。

このようにして大陸由来の古代文様群は、公家文化において重要な位置を占めるようになっていったのです。

独自文化の隆盛と、その主要要素となった有職文様。

しかし、唐の弱体化と日本社会の成熟もあって、多岐に渡っていた中国の強大な影響力は、遣唐使の廃止を始め、平安の前期頃にはすっかり陰りを見せる事になります。こうして、それまで蓄積されてきた唐風文化を独自に発展させた「国風文化」が、その誕生へと至ったのです。

そして同時に、大陸由来の文様も、その特徴を変形・単純化した"日本独自の文様"として生まれ変わります。それは、公家文化の一端を担う要素として、一時の綺羅びやかな流行から、華やかな伝統へと定着していく中で、「有職文様」としてパッケージされ、和文様の基本として現代にまで伝えられることになったのです。

このような有職文様の一種であった藤文様のうち、代表的といえるものは、3つの藤の花を巴形に配置した「藤巴」や、枝垂れた藤の花を丸くまとめた「藤丸」あたりでしょうか。

ちなみに、この藤巴や丸藤が、のちに家紋・藤のデザインの元となっていきます。

藤を含めた文様の"位置づけ"の変質と「家紋」となっていく流れ。

当初、目新しさの象徴だった大陸文様ですが、有職文様として、伝統・様式化が進むにつれて、場所・時間・場合だけにとどまらず、家系・官位位階・年齢などの「細かい条件」に合わせて、使用される文様が固定化されていくようになりました。

具体的には、立太子前の親王の初春に纏うべき普段着とその文様、摂関経験者のうち、五十代に至った者の上着とその文様、五摂家の一つ、近衛家の当主が中納言在位時に身につける袴とその文様、といったものが「細かい条件」とされるものです。

このようなものが、公家社会の日常となっていったため、当時の都の人間であれば、どのような家系が、どのような文様を使用するか、といったような知識は豊富だったのではないでしょうか。

文様としての長い歴史を経て家紋へ。

このような背景もあり、半ば「家系を象徴」するような文様も誕生した事から、個人や家系の所属や所有などを示す「マーク」として、利用される流れが生まれます。こうしたものが最終的に、個人の出自や家系を示す「家紋」となっていくのです。

例えば、装束に配するなど特定用途に固定化された文様や、牛車の所有者を示すため、あしらった固有の紋章などから、家紋へと派生した例として、近衛家・西園寺家・徳大寺家・久我家などのものが挙げられます。

有職文様を基とする家紋が、武家にも存在する理由。

有職文様から家紋となる流れは、公家特有の現象に限りません。一見すると、公家文化と関連するイメージのない、武家の家紋でも有職文様が元となったケースが有るのです。

そもそも彼らは、武士であると同時に貴族の端くれでもあった。

平安期以降の朝廷社会では、「家格」による序列が明確に定められるようになり、出身家系の「格」(ランク)によって、出世の上限が固定化されるようになっていました。

生まれついて出世の見込めない、家格の低い傍流家系の者は、下級貴族として、家格の高い派閥に属する形(家人=けにん)となっていました。このような下級家系出身者の中から、所属する上級貴族に対して、武装化の上で軍事力を供するものが現れるようになります。これが武士の原型(の一例)となります。

平安時代は武士の黎明期であり、後に幕府の中枢を担うような有力武士であっても、立場としては下級貴族であったというわけです。このような背景もあり、当時の武士は、摂関家などの上流階級の持つ、華やかさや権勢に対して、強烈な憧れがあったといいます。

憧れの上流貴族とのつながりを求める、かつて存在した心理がその由来。

そんな彼らに対する「同一化」への心理からか、彼らへの関係性の強さや、その風俗・習慣と一体化することを"価値"とし、アピールする者も現れました。例えば、戦国大名の武田信玄で有名な甲斐・武田氏は、家紋に有職文様である「花菱」と「四つ割菱」を用いている事で有名です。

また、六角・京極両氏の祖であり、長らく近江(滋賀県)の地を支配した名族・佐々木氏は「目結い(めゆい)紋」を用いましたが、この目結い紋も、公家の家格の頂点たる「五摂家」の一つ「九条家」が有職故実に基づいて、長年に渡り冠の文様とした事で、知られたものです。

佐々木氏は、かつて九条家の家人の家柄であったので、家紋を目結いとする事は、「あの九条家の」一派である事を示す狙いがあったとも言われています。

武家にも有職文様が由来となる家紋が存在したという事実は、のちに日本の統治を担うことになる武士階級にも、その黎明期には高貴な朝廷社会をありがたがり、同一化を図ることが、ステータスとなった時代があったという事がわかります。

このように、有職文様をルーツとした家紋は、長い歴史と高い普及率を誇る「桐」「木瓜」「蔦」などが代表的です。そして当然、代表的な有職文様の一つである「藤」も、これらと同じような流れで、家紋となり、普及していく事になるのです。

藤の家紋と縁が深いとされる藤原氏とは?

藤が家紋として最初に使用されたという、明確な事例は定かではありませんが、広く普及した藤紋種は、日本の歴史を学ぶ時に、必ず登場する「藤原氏」と関わりが深い家紋とされています。では、この「藤原氏」とは一体どのような氏族なのでしょうか?要点を抑えておきましょう。

藤原氏本流・惣領家の来歴。

藤原氏の祖とされる中臣鎌足は、若き日の天智天皇とともに、各地の豪族たちによる連合政権のような旧来の形から、中国の隋・唐をモデルに、天皇を中心とした律令に基づく中央集権国家を構築するべく、当時権力の座にあった蘇我氏を討ち、大化の改新を断行します。

幼くして跡を継いだ鎌足の嫡子・不比等は、天智天皇崩御後の権力闘争に巻き込まれ、失脚した中臣一族の中にありながら、自らの運と才覚を頼りに底辺層から這い上がった事で、改めての藤原氏の名乗りを許され、独立した系統を立ち上げます。

不比等によって築かれた藤原氏隆盛の基盤を土台に、着々と栄光への階段を登った藤原氏は、摂関政治を全盛に導いた藤原道長・頼通の親子を輩出するなど繁栄の頂点を極めます。

しかしその後、その勢力はゆるやかに衰退。院政政治や平氏の台頭、源氏による独自政権の樹立を経る中で、最終的にその嫡流は、5つの系統に分裂することを余儀なくされますが(五摂家の成立)、都合400年余りに及ぶ長きに渡る繁栄は、その痕跡を朝廷社会に深く刻むことになります。

国家の統治機構を、ほぼ完全に席巻した藤原氏。

よく知られているのは、摂政・関白を唯一、輩出する事ができる最上位の家格「五摂家」のすべてを藤原氏が占めたことですが、彼らの繁栄の歴史が残した痕跡はそれだけにとどまりません。

中央貴族の中でも中・上級に分類される※1.堂上家(そのうち各種学問の教授、陰陽道、医療研究などの特殊な家柄の多い「半家」を除く)の全111家のうち、藤原氏が占めていたのは、何と95家にも及ぶのです。

この不断の繁栄がもたらした、圧倒的な層の厚さを見れば、藤原氏が日本史上屈指の名門と称されるのも、うなずけます。このような事実から、先に述べた「貴族文化に対する憧れ」とは、「藤原氏に対する憧れ」と言い換えてしまっても良いのかもしれません。

※1.どうじょうけ=従三位以上に昇進または御所に昇殿を許される家柄の総称。

華やかな繁栄の裏には負の部分も。

朝廷組織をこれだけ占有しているいる藤原氏ですから、新たに枝分かれしてゆく藤原氏族の系統は、相当な数にのぼります。

しかし先に述べたように、朝廷における官職は、その絶対数もポジションもほぼ固定化されており、大半の新規分家筋は中央に居場所がないというのが現実で、仮に留まったところで、中位以下の椅子を巡る不毛な競争への参画が関の山です。

藤原氏族における末端系統の現実。

彼らのような、中央での出世の望みのない者達のうち、国司の任に運良くありつけた者(利権の旨味から、人事に影響の強い有力貴族に取り入ったりするケースも)の中から、その権限を利用し、赴任先における影響力を強めることに注力する者が現れます。

彼らは、その権力を活かして土地を開き(荘園の開発領主)、任期後も京に戻らず、開いた土地を(家人として所属する皇族・有力貴族などの後ろ盾のもと)領国のように支配し、在地武士や、中央で下級ながら官職を得て、軍事貴族となるなどの変貌を遂げていきます。

これら大小の武士のうち、平安末期の騒乱期において上手く立ちまわった者は、無官や下級貴族の立場から、武家政権の中核勢力や有力諸侯となるなどの"成り上がり"を体現します。

逆に言えば、藤原氏族とはいえ傍流の末端家系の者が、一定以上の成功を収めるためには、地方に下って武士化するという方法以外に、結果的には残されていなかったといえるでしょう。

武士系藤原氏のニつの系統。

武士化を遂げた藤原氏の、その主な系統は「藤原利仁」流と「藤原秀郷」流の二つが挙げられます。この両系統は、それぞれ遡れば、奈良時代の宰相・藤原魚名にたどり着くと伝えられています。

摂関家系と明暗の別れた魚名の家系。

藤原魚名とは、藤原不比等の孫にあたる人物で、後に惣領家とも言える摂関の系統を輩出した「藤原北家」の出身者です。彼は最終的に左大臣の地位に登りつめ、政治の実権を握りますが、突然の失脚で表舞台から姿を消すことになります。

兄・真楯の系統が、多数の摂関を排出し、藤原氏族の本流となったのと対象的に、失地の回復を果たせぬまま亡くなった魚名の系統は、中・下流貴族の地位に甘んじることになります。(※魚名流の嫡流は「四条家」だが、中央における家格は、羽林家にとどまる。)

武士としての地位を確立。北陸地方に多くの系統を残した藤原利仁。

藤原利仁は、魚名の子である鷲取の系統とされ、関東各地の国司を歴任。その立場を背景に武功を立てた事が認められ、当時、武家の最高の栄誉職とされた鎮守府将軍に任官した事で、有力武家の立場を確立し、武士系藤原氏の主要な系統としての礎を築きます。

また利仁は、その母方が北陸の出であった関係から、彼の子孫は北陸を中心に勢力を築き、富樫氏や戦国時代においてもお馴染みの堀氏や前田氏、加藤氏、後藤氏といった各氏の祖となった事で知られています。

武士系藤原氏として、全国的に広がった藤原秀郷の系統。

一方、魚名の五男・藤成の系統とされる藤原秀郷は、父・村雄が下野国の国司であった関係から、下野国の有力者でかつ、在庁官人(現地採用の地方役人)として、一定の勢力を有した人物で、さらに平将門の乱を鎮圧した手柄から、これも鎮守府将軍に任じられた人物です。

将軍と同時に、武蔵国や下野国の国司を歴任した関係から、関東に勢力を拡大し、奥州藤原氏や、関東の名族として長く存続した佐野氏、小山氏、結城氏、戦国大名として有名な蒲生氏、龍造寺氏の祖となるなど、この秀郷の系統は、全国的な広がりを見せたことで知られています。

他、佐藤氏、伊藤氏、首藤氏、尾藤氏、近藤氏、内藤氏、武藤氏といった各氏も輩出していますが、これら藤の字の入る姓は、佐藤は「左衛門尉の藤原氏」、加藤は「加賀の藤原氏」、伊藤は「伊勢の藤原氏」といったように、藤原氏に因むものとされています。

ここまでの事からもわかるように、藤原氏は、上流貴族に限らず、ここには挙げきれない程多くの名門武士を輩出している氏族といえるでしょう。

藤原氏と藤の家紋の普及。

鎌倉時代になると、武家を中心に「家」そのものの識別や、また自らがどのような系統に属する家系なのかを、端的に示す役割を担った「家紋」という存在が本格的に定着していきます。

当時のこのような流れに沿って、藤原氏系の武家の家々でも家紋が用いられるようになりますが、それらの家々には主に「藤」の家紋が用いられたといいます。

家紋においても藤原氏の系統をアピール?

主だったところでは、藤原秀郷を祖とする諸氏で、佐藤・伊藤・近藤・尾藤・安藤・後藤・藤井・長谷川・五十幡・中野・川村・中岡などが、藤原利仁を祖とする諸氏では、斎藤・加藤・進藤・堀・村岡・長井・竹田などが、その他では遠藤・藤本・藤沢・藤田などの諸氏が、主に家紋として藤を使用したとの事です。

彼らがこぞって名字や家紋に「藤」を用いたのは、自らが藤原氏の流れを汲む事を示す狙いからだとされています。

ちなみに彼らが名字を新たに名乗る際、自らの出自を示す「藤」の字を用いるという風習は、同時期の源平系の武家が「足利」「新田」「武田」「佐々木」「北条」「千葉」「相馬」など、地域名をそのまま名字としたケースと比較すれば、明らかに異質といえるでしょう。

そこには武士である以上に、「所詮、我らは下級貴族」という負い目の特に強かった時代には、藤原氏の流れを汲むという事実だけで箔が付いたという背景を見逃すことは出来ません。

また藤の家紋は、武士階級が中心となって日本を統治する世が訪れてからも、家系を辿れば、かつて繁栄の限りを尽くした摂関家へと繋がるという、伝統と格式のある家柄であることの証明ともなったのです。

公家の藤原氏は藤の家紋を用いなかった?

しかし、自らの出自が藤原氏にルーツがある事を、殊更にアピールするかのように「藤」を用いたのは、主に武家の系統に限っての事であったようで、公家の藤原氏はそれぞれの系統が名字を名乗り、家紋を持つようになっても、それは必ずしも「藤」であるとは限らなかったようです。

例えば、藤原氏が独占していた、中央貴族の家格の頂点である五摂家の、その筆頭と目される「近衛家」とその分家である「鷹司家」は、藤の家紋ではなく、牡丹を用いていました。「九条家」とその分家である「二条家」「一条家」は藤の家紋を使用していますが、この3家も当初の家紋は牡丹であったとされています。

その3家を含め、家紋に藤を用いる藤原氏系は、一条家の分家である醍醐家が「下がり藤」を、ニ条家の庶流である富小路家が「藤の丸」を、北家閑院流の正親町(おおぎまち)系である正親町家、裏辻家と、西園寺庶流の分家・梅園家が「藤巴」を使用するだけにとどまり、これは藤原系の堂上家97家中、わずか8家を数える程度に過ぎません。

およそ90家に及ぶその他の藤原氏の系統は、巴、唐花、花菱、杏葉、杜若、鶴、雀あたりの、藤とは何の関連もない家紋を使用していたのです。恐らく、それぞれの系統に馴染みの深い文様を、そのまま紋章として用いたケースがほとんどであろうと思われます。

本来、藤原氏族にしてみれば、フジは深い思い入れの対象ではなかった。

「藤原」の名のそもそもの由来は、実は地名にまつわるものであり、植物のフジとの直接の関連性はないため、藤の文様に対する深い思い入れが、藤原氏系全体の共通認識として存在したわけではありません。

そもそも藤の文様が、有職文様となり公家文化に深く根付くようになったのは、「藤原氏の栄華にあやかる」という意味もあっての事で、あくまで「周囲から見て」藤原氏を"イメージさせるもの"に過ぎず、当の藤原氏自体が藤の文様をことさら意識したわけではないのでしょう。

さらに、家系の固定化された公家社会において、各氏それぞれの系統の成り立ちについては、それぞれが周知の事実なので、ことさら名字や家紋を利用して自らの出自を顕示する必要性がないという訳です。

家紋「上がり藤」に込められた意味や由来とは?

この辺りの要素が、武家のケースと違い、公家の藤原氏において藤の家紋が重んじられなかった要因ではないでしょうか。

これら、上がり藤を含む藤紋種の成り立ちや由来を順に見てきましたが、そこから浮かび上がってくるのは、自らが「日本史上屈指の名門家系として栄えた藤原氏の後裔」である事を示すという意味が込められた家紋だという事ではないでしょうか。

家紋がさまざまな階層に行き渡ったのは江戸時代。

上がり藤を含む藤紋種の成立の経緯、そしてその意味や由来については、これまで見てきた通りですが、それではこの藤の家紋が、現代において、※.「十大紋」の一つとされる程、広く普及している要因は、一体どういったものなのでしょうか?

※.現代にも伝わる多数の家紋のうち、特に普及率の高い「柏・片喰・桐・鷹の羽・橘・蔦・藤・茗荷・木瓜・沢瀉」の十種を「十大紋」として分類されています。

家紋そのものの需要が高まった江戸時代がカギとなる?

一般的に、現代において占有率の高い家紋が、広く普及した要因は、家紋の使用が爆発的に広まった江戸時代にあるとされています。

その背景には、厳格に適用された身分制度により、武士でない者の名字の公称が禁じられた事にありました。名字が公に使用できなくなった一般階級は、家系や個人の識別に(一部種類を除いて)使用制限のなかった"家紋"を利用する習慣が生まれたのです。

それまでの日本社会において、家紋は支配階級特有の文化と言えましたが、時代の変化とともに、上記ような必要に迫られた事もあり、庶民による家紋の利用は当たり前の状況となりました。社会を構成する圧倒的多数派である庶民層がこぞって用いるようになったのですから、「爆発的な」普及となったのもうなずけます。

特定の家紋が広く普及するための条件について。

家紋の新規使用の需要が一気に高まったこの時代、「どの家紋を選ぶか?」の基準は一体どのようなものだったのでしょうか?十大紋を例に見てみましょう。

十大紋の一つである桐の家紋は、元は皇室専用の紋章で、室町時代以降は、足利将軍家や豊臣秀吉など、国家指導者が賜る前例が踏襲された事から、国政執行のシンボルとしての意味合いもあり、高い格式と権威を誇っていたため、こぞって庶民に用いられた家紋でした。

同じく蔦の家紋は、8代将軍・徳川吉宗が替紋として好んで用いた事で、知名度が高まり、庶民に人気の出た家紋です。権力の頂点に君臨した徳川将軍の権威にあやかっての事で、厳しい使用制限のあった葵の御紋とは違い、江戸幕府が蔦の使用に関しては寛容であった事も、後に高い普及率となった要因です。

さらに片喰、鷹の羽、茗荷などは、家紋としての縁起の良さから、特定の氏族に関係なく武士階級全般に広く普及していましたが、新たに家紋を定める庶民の中には、武家のように成功・発展した家系にあやかった例も多かった事から、結果的にこれらの家紋は武士に人気の高かった事が、後に広く普及する要因となったようです。

これらの事からもわかるように、現代における十大紋のような、高い普及率を実現するための"一般的な条件"は、家紋需要が一気に高まった江戸時代に、何らかの要素で、庶民の間に流行を生む事であったのがわかります。

ただ、藤紋種に関しては事情が異なる。

しかし、この「一般的な条件」は、どうやら藤紋種には当てはまらないようです。まず、藤の家紋は、かつて繁栄の限りを尽くした藤原氏をほうふつとさせる紋章ではありますが、藤原氏の本流がシンボルとして掲げているイメージがありません。

そして、数百年に渡って権力の中枢から遠ざかっているため、桐の家紋のように高い権威を感じさせるものでもなかったのです。そのため、庶民に人気の出る要素が、比較的希薄であった事は否めません。

また、特定の氏族に関係なく普及していた他の十大紋に比べて、佐藤や伊藤、加藤など藤原氏の後裔とされる系統に偏りが見られるところも異質といえます。どちらかといえば、近江佐々木流の「目結い」紋や渡辺氏の「渡辺星」紋などのような、遡れば特定の家系に行き着くものに、性質が近いのかもしれません。

上がり藤を含む藤紋種が広く普及した要因とは?

それでは何故、藤紋種は十大紋の一つに数えられるほど、広く普及したのでしょうか。それは、"江戸時代における「庶民からの人気」というアドバンテージを得られずとも、奈良の昔から繁栄した藤原氏が、長い年月をかけて全国的な基盤を築いていたから"という事が、要因として考えられないでしょうか。

全国的な基盤はどのような経緯で築かれていったのか?

先述のように、藤の家紋は朝廷を離れた藤原氏の後裔が、自らの出自を示すために、広く利用した家紋です。

そして、これもすでに述べたように、藤原氏は朝廷組織において圧倒的な多数派ですから、地方に流れる事で活路を見い出さなければならない、出世の上限が低い「傍流家系」出身者の割合も必然的に多くなります。

平安の昔より全国津々浦々に散った藤原氏族は、軍事貴族や在地武士として勃興したのち、武士政権の中枢だけでなく、地頭・守護大名・戦国大名・藩主といった、その時々の有力諸侯や、その配下武士などのいわゆる「支配階級」に多くの家系を輩出し、長く栄えていきます。

早くから日本各地に多数の血族を送り出してきた藤原氏ですから、領主やその被官といった一握りの支配階級だけにとどまらず、(朝廷組織における状況と同様、)それらから大量に派生する傍流家系によって、郡や郷などの中間指導層にまで、その氏族は波及していきます。

果ては、一介の農夫に身を置く事となった者も、決して少なくはなかったはずで、長い年月を経る中で藤原氏族は、支配階級から一般階級に至るまで幅広く社会に浸透し、地域に根ざした存在となっていったのです。

藤原氏の後裔である事がそのルーツで、藤の家紋が用いられる事も多い、佐藤・伊藤・加藤・斎藤・後藤などを名字に持つ家系が、現代において多数を占める事からも、藤原氏の子孫が社会の幅広い層に根を張っていた事がわかります。

このように、藤紋種の主な使用者たる藤原氏が、全国規模で手堅い基盤を築いていた事が、現在における藤の高い普及率を支える主な要因になったといえそうです。

※.もちろん武家の名門として存続した藤原氏もかなりの数ですから、先の片喰、鷹の羽、茗荷などと同じく、武家にあやかった庶民層によっても、藤の家紋が普及したという要素も無視できません。

藤紋種における上がり藤の位置づけ

最初にも述べたとおり、藤紋種の基本形は「下がり藤」であり、使用家系のほとんどが「下がり藤」か、その変形の家紋を使用しているのが実態です。今回取り上げた「上がり藤」は、記事内の画像を見ても分かる通り、「下がり藤」の垂れ下がった二房の藤の花を、上向きに押し上げて抱き合わせた形となります。

花房が下がっているか、上がっているかの違いだけで、基本形に形状のよく似ている「上がり藤」は、「藤の丸」や「藤巴」のような独立した系統の家紋ではなく、藤紋種の基本形である「下がり藤」の変形だとされています。

どのような経緯で上がり藤に変形したのだろうか?

一般的には、「下がり藤」を使用する多数の家系のうち、分家独立の際に、本家の家紋と区別をつけるための変形の一つとして、「上がり藤」が生み出されたとされています。また、「下がり藤」の「下がり」が、家系発展の勢いの"陰り"に通じるという観点から、縁起をかついだ「上がり藤」が広まったともいわれています。

大坂の陣で知られる後藤(又兵衛)基次を輩出した播磨後藤氏は「下がり藤」を家紋としましたが、同じ藤原利仁流の近しい同族とされる美作後藤氏は、「上り藤に三つ星」を使用していたなどの例があります。

下がり藤にも劣らない普及率?

また「上がり藤」には、この形状のものだけでなく、さまざまな変形のバージョンも存在しています。丸や方形などの図形で囲ったものはもちろん、この上り藤のデザインを外枠として用い、上部のスペースにさまざまな家紋を組み合わせたものも多数にのぼります。

変形のバリエーションが豊富であるという事は、それだけ多くの"枝分かれ"が存在しているという事であり、つまるところ、使用する家系が多数にのぼった事を意味します。

基本形である「下がり藤」ほどではありませんが、「上がり藤」は藤紋種の中ではかなり広く普及している家紋のようです。その普及率の高さから、紛れも多いのは間違いありませんが、その成立の経緯を考えると、実際に祖先が藤原氏に行き着く「上がり藤」の家系も少なくないかもしれません。

家紋に上がり藤を用いたとされる著名人

上がり藤系の使用が確認される著名人では、何といっても初代内閣総理大臣「伊藤博文」がよく知られるところです。また、終戦時の総理大臣「鈴木貫太郎」も使用していたようです。

神田上水の整備で知られる「大久保忠行」(遡れば藤原北家の出のようです。)、幕末の幕府老中「安藤信正」、幕末の志士「吉村寅太郎」も上がり藤系の使用がわかっています。

近現代においても、実業界からは、資生堂の創業者「福原有信」、芸能の世界では、昭和の喜劇王「藤山寛美」など、あらゆる時代の、名の通った人々の使用が確認されています。

以上が家紋・上がり藤の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

家紋・上がり藤のフリー画像素材について

[家紋素材の発光大王堂]は、家紋のepsフリー素材サイトです。以下のリンクからデータをダウンロードして頂けます。家紋のフリー画像を探しているけど、EPS・PDFの意味がよくわからない方は、ページ上部の画像をダウロードしてご利用下さい。背景透過で100万画素程度の画質はあります。

家紋「上がり藤」のベクターフリー素材のアウトライン画像

※「右クリック」→「対象をファイルに保存」を選んで下さい。

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