橘の家紋一覧と意味や由来などの解説|家紋の大王堂

家紋一覧『橘』

橘紋についての詳細解説!

橘(たちばな)の家紋は、ミカン科の「常緑樹で日本固有の柑橘類」とされる『タチバナ』の実・葉・花を象った紋章です。

現代日本において「柑橘類」として知られる多くの種は、奈良時代以降に導入・発生・発見されたものがその大半を占めることから、古代期までの日本において柑橘系植物は大変に珍しいものといえました。

橘紋のモチーフとなったタチバナの画像

その点、古代期以前より日本に自生していた固有の柑橘類である『タチバナ』は、「果実が(半年にも及ぶ)長きにわたって枝にとどまり、香りを放ち続ける」や「(常緑樹であるため)紅葉・落葉がない」といった特徴も手伝って、『永久不変=不老長寿』に通ずる縁起物として広い認知をほこったようです。

古くは日本神話に登場し、奈良・平安期には「詩歌・絵画の題材」や「衣装・調度の図柄」となったほか、源氏・平氏・藤原氏と並んでその名の挙がる名門氏族である『橘氏』成立のエピソードにも深く関わるなど、当時の日本社会・文化に深く根ざした植物だったといえるでしょう。

こうした高い社会的認知という背景もあって、橘紋は早くから家紋化された紋章の一つとして知られています。

橘紋は日本史上でも有数の名族にゆかりある証?

実際に『橘紋』を使用した氏族でまず挙げられるのは、先述の通り「源平藤橘」の一角にも数えられる『橘氏』でしょうか。

源平両氏、藤原氏に比肩する名門(とされる)『橘氏』の概要

橘氏は、聖武天皇在位下の8世紀ごろに、国政を主導するほどの栄達(極位:正一位・極官:左大臣)を果たした『橘諸兄』を輩出したことで知られます。

史上屈指の名門家系である橘氏の代表的人物である橘諸兄のイメージ画像

しかし、その直近の後継であった「橘奈良麻呂」が、藤原氏(仲麻呂)排斥の失敗(橘奈良麻呂の乱)により失脚すると、以降は散発的に公卿を輩出する程度となり、貴族としては中・下級のグループに没落してしまいます。

武家では、「藤原純友の乱」で活躍し、筑後橘氏の祖となった『橘公頼』、いわゆる「源平の戦い」で活躍し、小鹿島・渋江・牛島・中村・中橋、各氏の祖となった『橘公長・公業』親子、「橘長谷麻呂」の後裔(諸説あり)で近江国・甲賀郡の豪族である『山中氏』などが知られます。

さらに「承平天慶の乱」で活躍し、後裔に「楠木氏」を出した『橘遠保』も橘氏族と伝わりますが、これらは同じ4姓に挙げられる「源氏」「平氏」「藤原氏」各々の系統の(公家・武家を問わずの)繁栄・発展ぶりと比較すると、明らかに物足りないというのが正直なところです。

橘紋には橘氏を示す意味も含まれる

橘氏族やその(一部)後裔が橘紋を用いるようになったのは、やはり橘氏の成立そのものが(上述の通り)植物のタチバナに深く関わっていることが要因といえるでしょう。

しかし、それ以上に(家紋文化が成立する12世紀頃には、すっかり家勢の細っていた彼らが)史上でも名の通った「橘三千代」や「橘諸兄」へと遡る出自や縁があることを示し、強調する狙いがあったようにも思えます。

橘紋の著名な使用例

『橘紋』は、植物のタチバナから生まれた紋章であることから、同じくタチバナがその成立に深く関連する「橘氏」との強い結びつきが語られがちですが、実際は(橘氏以外の)他氏族にも広く用いられ、そしてそれによって全国的な広がりを獲得した家紋です。

橘氏以外による橘紋使用の代表例の一番手は、やはり徳川家康による天下の一統・江戸幕府の成立に著しい貢献があったことで知られる『井伊氏』でしょうか。

近世武家の名門「井伊氏」の概要

井伊氏は、藤原北家・冬嗣(鎌足のひ孫)の後裔を称し、平安時代後期ごろから遠江国・井伊谷の豪族層(国人領主)として長らく存続していた家柄でした。

しかし、現代の戦国ファンにもおなじみで、「徳川四天王」の一人にも数えられる【第20代当主・井伊直政】が徳川家康に召し出されると状況は一変、直政は「井伊の赤備え」を率いて抜群の戦功を重ねて家康の征夷大将軍の任官に貢献します。

徳川四天王の一人である井伊直政の存在が伊井氏を近世大名屈指の名門に押し上げ、橘紋の影響力を拡大させた

幕藩体制下でも「徳川譜代・筆頭」として近江・彦根藩に封ぜられると、史上でも名高い「安政の大獄」を主導したことで知られる「井伊直弼」を始め、5人もの『大老』も輩出するなど、幕政に重きをなした近世屈指の名門武家ともいえる氏族です。

井伊氏の橘紋の由来。橘氏との関係は?

井伊氏による「橘紋」の使用の由来は、井伊氏成立の逸話に関係したものであって、(彼らが藤原氏の後裔を公称していることからも分かるように)橘氏との血縁的な繋がりなどから来ているわけではありません。

井伊氏の初代にあたる「井伊共保」は、元は捨て子で、何処かの寺社で養育されていたところをときの遠江国司「藤原共資」に見初められ、婿養子として迎えられると、家督相続ののちに故地の井伊谷に本拠を構え「井伊氏」を称したといいます。

この井伊共保が拾われた(「生まれた」とも)場所は、井伊谷の八幡宮の井戸であったといい、その井戸に赤子(共保)とともにタチバナの実があったとされ、これを産衣の文様としたことが、戦国大名・井伊氏の『彦根橘』の紋所と「井の字」の旗印の由来とされています。

井伊氏の紋所が橘紋である根拠となっている伝説の井戸

日蓮宗の宗紋が橘紋なのは?

日蓮宗の宗祖で知られる「日蓮」聖人ですが、その出自は「遠江国・山名郡・貫名(ぬきな)郷」を根拠とした「貫名氏」と伝わります。この貫名氏は井伊氏の一門で、5代・井伊盛直の三男・政直が貫名郷に所領を得たことで分家・成立した家系です。

日蓮宗の宗紋が橘紋であるのは、宗祖・日蓮聖人の出自が井伊氏につながるものだったからという

日蓮宗の宗紋が『井桁に橘(日蓮宗橘)』であるのは、この日蓮聖人の出自(井伊氏一族の出)に由来するものとされているようです。

その他諸々の橘紋の使用例

「※見聞諸家紋」には、小山氏(秀郷流藤原氏)後裔で、室町管領・細川氏の被官として摂津守護代を務めた『薬師寺氏(薬師寺橘紋)』と、赤松氏(村上源氏)庶流の家柄で、播磨国に勢力を築き姫路城主を務めた『小寺氏(藤橘巴紋)』の2例が確認されています。

※見聞諸家紋…けんもんしょかもん。最古の家紋収録書物で、集められた家紋は「応仁の乱」における東軍方の武将・被官人のものが主だという。

武将による橘紋の数ある使用を確認

元は上記・小寺氏の重臣で、のちに軍師として豊臣秀吉の覇業を支えた黒田官兵衛で知られる「黒田氏」にも、一時的な(小寺氏から賜ったものであろう)藤橘巴紋の使用が確認されています。

土佐国・安芸の国人領主である「安芸氏」は、蘇我氏を出自とする一族と伝わりますが、橘氏後裔の異説もあり、彼らによる橘紋の使用(他に「三つ割り剣花菱」も使用)はそれ故のものともされています。

藤原北家・冬嗣流の家系で、長年にわたって北近江を根拠とし、戦国期には浅井氏の重臣として知られた「雨森氏」も橘(十二葉付三つ橘)紋の使用家とされます。

山陰地方の武将で、主筋であった尼子家再興に執念を燃やしたことで知られる「山中鹿介(幸盛)」も(「目結い紋」使用の他に)橘紋の使用が伝わりますが、上記・橘氏流の山中氏とは別系統であり、鹿介の山中氏は出自に不明な点が多いようです。

橘紋の使用は幕藩体制下の大名・旗本にも

その他、大名家による橘紋の使用は、

●越後与板藩主・井伊氏(←彦根藩主家の分家)の『彦根橘

●肥前島原藩主・深溝・松平氏(←徳川一門・「十八松平」の一つ)の『(替紋)』

●下総関宿藩主・久世氏の『久世橘(替紋)』

以上のような家々が知られ、一方、旗本家による橘紋の使用は『丸に橘』が多く、以下の家系が挙げられます。

●「大平氏(近江の豪族で、足利将軍や織田信孝に仕えた後、徳川家臣。)」

●「久保氏(徳川家仕官は関ヶ原合戦後。元は織田信雄の家臣。)」

●「紅林氏(今川氏所属から家康に仕え旗本に。橘氏後裔を称す。)」

●「篠瀬氏(藤原北家後裔を称す。遠江・篠瀬を本拠とした。)」

●「村上氏(出自を藤原氏と称す。信濃源氏・村上氏とは別系統。)」

さらに、替紋でプレーンな『』紋を使用した「甲斐庄氏(楠木氏の後裔を称す。故地は河内・甲斐庄。)」など、橘紋は江戸期には大名・旗本合わせて90家余りに使用されたといいます。

神紋・寺紋としての橘紋

兵庫県豊岡の「中嶋神社」の神紋が『丸で橘』紋であるのは、先述の「現し世に不老長寿の果実(タチバナ)をもたらした説話」から、「田道間守」を※菓子神・菓祖として祀っていることが由来となっています。

※本来の「菓子」とは、食事以外の嗜好食品の全般を指す言葉。穀物・芋・豆などによる菓子の生産が盛んになる前は、もっぱら菓子とは果実を指していうものであった。

京都府八幡市の「石清水八幡宮」も神紋に(三つ巴紋の他)『橘』紋を使用する神社です。これは八幡神をこの地に勧請した「行教」律師の御紋が橘であったためとも、実際に八幡宮建立を監督した木工寮権允「橘良基」に由来するともいわれています。

石清水八幡宮の神紋にも橘紋が使用されている

京都市右京区の「梅宮大社」も『橘』紋が神紋です。この神社は橘氏の氏神とされています。

全部は挙げ切れませんが、もう少しご紹介

その他神社では、奈良県北葛城郡「廣瀬大社」と橿原市「天高市神社」の『橘』紋、滋賀県彦根市「井伊神社」と「彦根神社」の『丸に橘』紋、秋田県能代市「能代鎮守八幡神社」の『菊座橘』紋などが、寺院では、滋賀県彦根市「清凉寺」の『丸に橘』紋と大津市「園城寺」の『菊座橘』紋などが挙げられます。

このように橘紋は、(血縁的な)出自や階級の種別(武家や寺社など)を問わず、実に多くの系統に使用された紋章であったことが分かります。

10大家紋に数えられるほどの普及の要因とは?

家紋はその誕生以来、「公家」「武家」「社家」「寺家」の特権階級に特有の慣習・文化でしたが、江戸時代以降、一般庶民の間にも急速に広がっていくことになります。

これまで家紋を持たなかった庶民が、新たに家紋を定める際の「決め手」にはいくつかの傾向があったようですが、その中でも「信仰する寺社や地域の領主にあやかる」という考えは、代表的な選択理由の一つだったとされます。

すでにさまざまな特権階級に使用が広がっていた橘紋は、こうした考えの層を取り込みやすい状況であったことや、そもそもは永久不変をあらわす縁起の良い吉祥文様であることを考えれば、多くの庶民にとって選択の対象となったことも頷けます。

現在では「桐」「藤」「柏」「鷹の羽」「木瓜」などと並んで「10大家紋」の一つに挙げられるほどの広範な普及を獲得した紋所となっています。

橘紋の多い地域や苗字は?家系のルーツは辿れる?

上述の使用家系に挙がった苗字の他、

●立花●三木●斉田●吉川●若林●和田●会田●長谷川●山田●野尻●松井●浅井●今大路●曲直瀬●岡本●福富●大平●牧●井関●山脇●岩室●松村●小南●花田●田中●中井●巨勢●小野●石黒●數原…

など、元々特定の系統に使用の偏った紋章ではなく、さらに10大家紋に挙げられるほどの人気家紋だけあって、実に多くの苗字に使用されている紋種であるといえます。

普及の多い地域については、和歌山県、高知県の他、奈良県、広島県、長崎県などに特によく分布しているようです。

家紋が橘の家系のルーツは?

特権階級による使用が主だった近世以前の家紋は、それぞれの家系的な出自を端的に示し、また結束を固める役割(土岐一族の「桔梗」・武田一族の「菱」・菊池一族の「鷹の羽」など)を果たしていました。

しかし江戸時代以降、家紋文化が大流行し、庶民であっても家紋を持つことが常識化するとすると、無秩序(←血縁的な連続性とは無関係という意味で)な使用が横行し、上記のような機能は失われてしまいます。

まして橘紋は10大家紋に数えられるほど広く普及した人気紋であるため、「家紋が橘」という情報だけでは、使用家系のルーツを辿ることは難しいといわざるを得ません。

以上が【家紋 橘】の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

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