桔梗の家紋について
家紋・桔梗(桔梗紋=ききょう紋)は、キキョウ科の多年生植物で「秋の七草」の一つでもある『キキョウ』を象った家紋種類の一群を指します。
桔梗紋は、かつて美濃・尾張・伊勢を領した有力中世大名である『土岐氏』の代表紋であり、そして土岐氏とその一門・郎党で構成される武士団である『桔梗一揆』の連帯の象徴としても知られます。
土岐氏の桔梗紋の由来は、「桔梗の花を兜に挿して戦勝を得た」とも、「キキョウの別名であるオカトトキが、土岐の名に通じる」とも伝わっているようです。
また、室町期の関東における伝説的猛将として、今日でも知られる『太田道灌』を輩出した『太田氏』もこれを定紋(太田桔梗)とし、戦国期では、明智光秀や加藤清正などによる使用が著名です。
「桔梗」の文字中の「更」「吉」が「さらによし」で、瑞祥的な意味合いでも好まれたと言います。桔梗紋の種類は100種をゆうに超えますが、つける花が「美麗」(均整の取れた五弁の造形と鮮やかな浅紫色)であることから、花部分を主体とした意匠が多いことも特徴的です。※この解説文の続きは、種類一覧の下にあります。下のボタンで一覧を飛ばすことも出来ます。
桔梗の家紋の種類一覧
桔梗の家紋の詳細解説
キキョウは、原産地に日本が含まれていることもあり、古来より秋の七草に数えられるほど人々になじみの深い植物だったことから、家紋文化の到来よりも以前から文様として図案化がなされ、衣服や調度に用いられていました。
桔梗紋の成立と広がり
上記、桔梗文様からの派生と見られる桔梗紋ですが、「いつ頃」「誰によって」使用が始まったものか?についてはハッキリ分かっていないようで、史料上の明確な言及は、鎌倉末期~南北朝までを題材とした軍記物語である「太平記」の登場まで待たなければならないようです。
認知度と使用の広まりの端緒は『土岐氏』に有り?
太平記には、土岐頼康(土岐氏・6代目当主)の弟である「土岐(悪五郎)康貞」が、笠印に桔梗紋を用いていたことが分かる描写があるほか、「土岐氏の軍勢」を示す箇所にも『土岐の桔梗一揆』なる表現が数多く用いられています。
この太平記の桔梗紋に関連する描写を見ても分かるように、桔梗紋の使用の代表例といえば、まず挙げられるのが『土岐氏』ですが、それでは土岐氏とは一体どのような氏族なのでしょうか。
土岐氏とは?
『土岐氏』とは、長らく美濃国を根拠地とした清和源氏(『頼光』流)の有力大名家です。美濃国内に勢力を持つ源氏諸族(「美濃源氏」)を束ねる嫡流の家柄でもあります。
この「美濃源氏の嫡流」は、系統の父祖にあたる『源頼光』と子の「頼国」がかつて美濃国司を務めた関係で、一族が美濃国に保持していた影響力を足がかりに勢力の扶植に邁進。のちに『美濃・土岐郡』に館を築いて本拠とし、土岐氏を称するようになったといいます。
以降、美濃国内に多数土着した庶流一族(明智氏・多治見氏・久々利氏・浅野氏など)を主体とした強力な武士団(「桔梗一揆」)が形成されると、南北朝時代にはこれを率いて尊氏方として各地を転戦。室町初期には、幕府重臣・3カ国(美濃・尾張・伊勢)守護として繁栄した名門武家です。
土岐氏と桔梗紋
土岐氏による桔梗紋の使用は、宗家や一門衆に限らず、庶流の豪族衆にも及んでいました。
そのため、彼らにとっての桔梗紋とは、「土岐氏の家紋」のみならず「土岐一族の紋章」という性質をも帯びたものであり、それは(上記)太平記にも登場する『桔梗一揆』なる表現にもよく表れているといえます。
一揆といえば、今日では「民衆蜂起」を意味するものというイメージがありますが、本来は「揆を一にする」つまり、「みち・やり方(目的)を同じくして結束する集団」のことをいうものです。
つまり「(土岐の)桔梗一揆」とは、「桔梗の印のもとに同心する土岐一族の武士団」となるわけで、太平記にこの表現がある事実を考えれば、少なくとも南北朝期には「土岐の桔梗紋は、一族への所属や連帯・結束を表すもの」という認識が内外に浸透していたことが分かります。
土岐氏の桔梗紋の由来とは?
土岐氏が桔梗紋を用いるようになった由緒については、室町後期の家紋収録書である「見聞諸家紋」の土岐氏についての言及に、「ある野戦の折り、桔梗の花を兜の前立に挿して戦ったところ、戦勝を得たことから桔梗を家紋とするようになった」(意訳)とあります。
また、キキョウはその別名を「岡に咲く神草」という意味の『オカトトキ』といいますが、『土岐郡』の地名は、この地が「オカトトキ(キキョウ)の咲くところ」であったことが由来ともいい、これによって土岐氏は家紋を桔梗に据えたとする説もあるようです。
太田氏も桔梗紋の使用で著名
土岐氏と同じく、清和源氏頼光流を出自とする武蔵の『太田氏』も桔梗紋を使用する著名な例として挙げられます。
太田氏は、「源頼朝」の平氏政権打倒の軍に加わった「源広綱(頼光の5代子孫)」を祖とする系統で、室町幕府の関東管領職を世襲する「上杉氏」の一族である『扇谷・上杉氏』の執事(家宰)を務める家柄です。
代表的な人物には、江戸城や河越城を築き、28年の長きに渡った「享徳の乱」において主家の扇谷上杉氏の危機を幾度も救ったことで史上に名を残す伝説的名将の『太田道灌』が挙げられます。
太田氏の桔梗紋に対する由緒には、広綱の父である源頼政が戦場で墨を摺る際に、水の代わりに傍らのキキョウの花の水分を硯水代わりに墨汁を作って檄文をしたためたことで敵軍を破ったことに縁起を担いで桔梗を家紋としたと伝わるようです。
桔梗紋は『源頼光』に連なる家柄であることの証の紋章?
一般的に桔梗紋は、ここまで取り上げてきた「土岐氏」や「太田氏」の家紋というイメージが強い紋章です。さらに、「桔梗紋の起源は土岐氏」とする説やイメージも根強くあるようです。
しかし、先の「見聞諸家紋」には、「(元は)源頼光の紋で、末裔がそれを用いた」(意訳)とあるように、桔梗紋は土岐一族や太田一族だけでなく清和源氏・頼光流の系統が多く家紋に用いているものです。
この記事でもすでにご紹介の通り、土岐氏も太田氏も「清和源氏・頼光流」を出自とする系統です。
そしてこれも先述の通り、土岐氏・太田氏の双方ともに桔梗を家紋に据えた由来のエピソードが伝わっていますが、両氏の桔梗紋は、実際にはそれぞれが新たに用い始めたのではなく、祖先にゆかりの紋・文様であったものをそのまま家紋としたと考えるほうが自然な気がします。
※平安中期の人物である源頼光の時代には、まだ家紋は存在していなかった(家紋の成立は平安末期以降とされる)ため、ここで言う『源頼光の紋』とは、身の回りの所有物などに施していた文様のようなものを指しているのではないかと思われる。
この文様のようなものが桔梗で、それがやがて定番化して自身やその子孫を示す識別子と化していったという経緯があったのかもしれない。
その他の桔梗紋の使用について
賤ヶ岳七本槍の一人で肥後・熊本藩主の『加藤清正』は、蛇の目紋の使用で知られますが、のちに桔梗紋も併用したといいます。これは、讃岐・丸亀を改易された尾藤知宣から引き継いだものとも、出身地の美濃に因んだものともされます。
また、桔梗の字には「更と吉」が含まれていることから、これを「さらによし」と解して縁起を担いで使用に至った家など、桔梗紋種は頼光流以外の家系にも使用が広がったようです。
桔梗紋種の形状について
桔梗紋は、数ある家紋の中でも比較的に使用家系の多い紋章であることと、モチーフであるキキョウの花の美しさも相まってその種類の総数はゆうに100を超えます。
基本形は5弁の花のみを正面から捉えた「桔梗」ですが、花を横からの視点で捉えた「横見桔梗」、花弁を細くした「細桔梗」、花をずらして花弁を倍に増やした「八重桔梗」などのほか、花に葉や茎を組み合わせたタイプも存在します。
とはいえ、100数十種の殆どは、基本形である「桔梗」から派生した変形種が目立つのが桔梗紋の状況と言えます。
中でも特に豊富なのが、円形や方形他さまざまな形状の図形で囲った種であり、「丸に桔梗」「組み合わせ角に桔梗」などをはじめ、「隅入り角」「隅切り角」「六角」「鉄砲角」「雪輪」「三重輪」などとの組み合わせが見られます。
桔梗をさまざまな太さの輪郭線で表した「陰桔梗」「中陰桔梗」や、黒地の円形を地色の桔梗で抜いた「石持ち地抜き桔梗」あたりはどの家紋種にも見られる定番の変形種と言えます。
また、「蔓」や「剣」との組み合わせや、桔梗を「桐」や「鶴」、「蝶」に見立てたもの、「三つ割り」、「三つ寄せ」といった配置による変化など、さまざまな変形パターンを駆使して、桔梗紋に多様な変化をもたらしていると言えるでしょう。
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