【丸に花菱】の意味や由来を解説。苗字や家柄の特定は?家系やルーツは?|家紋素材の発光大王堂

丸に花菱

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古来より和文様として様々な場面で用いられてきた[花菱]紋。また家紋として武田信玄で有名な甲斐源氏一門が用いたことで知られますが、その由来とは?そこに込められた意味も含めて[丸に花菱]紋を詳細に解説します。

[丸に花菱=まるにはなびし]は[花菱]紋の一種で、何らかの植物の花冠をモチーフとした植物紋と思われがちですが、実際は[唐花=からばな]とよばれる古代中国で用いられた文様が元となっています。

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文様としての「丸に花菱」

奈良時代前後に中国から伝来してのち、平安時代の[国風文化=こくふうぶんか]の影響から、独自のデザインに変化した唐花は、花弁が5弁で表現されるのが通常ですが、花菱紋は4弁でさらに菱形状に変形させた図案となります。

元になる文様(この場合は唐花)を変形させて作られた家紋としては、珍しく豊富な種類を誇り、単独で分類化されるのが一般的です。日本では、"菱"の文様も古くから用いられてきましたが、その"菱"よりもさらに華やかな印象を与える"花菱"は、それほど公家社会で重用された文様であるということです。

日本にも伝播していた古代文明の装飾

中国からもたらされた大陸由来のさまざまな文様は、当時の特権階級の垂涎の的とも言うべき存在で、さまざまな建築物・調度品・衣装などをきらびやかに飾り立てるのに重要な役割を果たしました。

当時、大陸の文化は一種のステータスで、例えるなら現代人が最先端のモードを取り入れるような感覚です。支配階級の中でも位の高い者ほど、大陸文化を取り入れるキャパシティが広くなり、位が下の者は、そのありさまに羨望を抱いたことでしょう。一般民衆に至っては蚊帳の外と言った感じだったのではないでしょうか。

唐の都・長安へ抱くイメージは、現代の日本人の世界的な都市に対するそれとは違い、もはや憧憬の念とも言えるものでしょう。例えば、現代人がニューヨークへ行く事と、奈良・平安時代の人々が長安へ行く事の困難さの比較ひとつを取ってみても、それは明らかではないでしょうか

華やかな公家文化を演出

遣唐使が廃止される前後から芽生えた国風文化の影響により、大陸由来の文様たちは日本独自の発展を遂げていきます。その中でも平安貴族のような上流階級に重用されたものは、のちに有職文様と呼ばれ、華やかな公家文化の形成の一翼を担います。

唐花文様や菱文様、そしてその両方の要素を持つ花菱文様は、こうした有職文様の一種なのです。そうした影響からか、花菱のデザインは単体の文様にとどまらず、亀甲文や瓜文など様々な文様と組み合わせる事で発展し、のちにそれぞれが紋章化を果たします。

文様から紋章、そして家紋へ

先例を重んじる伝統主義的な立場から[権門勢家※1=けんもんせいか]に独占的に用いられた特殊なケース(天皇家の菊・桐や、摂家の雲立涌など)を除いても、公卿を中心とした公家文化の象徴たる有職文様は、下級の貴族も含め人々の憧れの的でした。

[五瓜=ごか][木瓜=もっこう][亀甲=きっこう][菱=ひし][巴=ともえ]など、現代に伝わる家紋の中には、これら有職文様を由来としたものも多くあります。それは、これらの紋をはじめとする有職文様が華やかで高貴なイメージが強かったことと無関係ではないでしょう。

※1.平安時代ごろに権勢のあった家柄のこと。皇族、五摂家、有力寺社など。

"権力"の移行と"権威"の保存

近代化を迎えるまで、長く武家政権の続いた日本では、武家に一定以上の格式があるという印象を抱いていますが、もとは平安時代の下級貴族の一部が、地方で支配地を根拠に武装化したのが始まりです。"鎌倉幕府"成立、"承久の乱"を経てようやく立場が逆転します。

下級貴族や黎明期の武士は、有力貴族と[家礼=けれい]という主従のような関係を結ぶケースも多かったといいます。そのような家礼の家柄の者達は、主家とゆかりのある高貴な文様を、所属を表す旗印として用いたりして、それをやがて家紋としたケースもあったようです。

公家社会の栄華の名残り

例えば、公家の頂点である五摂家の一つ[九条家=くじょうけ]の、朝廷出仕の際に必ず身につけるしきたりであった冠は、慣例的に[四つ目結=よつめゆい]の文様が入ることが定まっていました。

近江源氏の佐々木氏は、この九条家の家礼であった時期があり、名門・九条家とつながりの深い家柄でした。佐々木氏は主家である九条家の馴染み深い文化のうち、この四つ目結の文様を、家を表す紋章として使用し始めたとされています。

やがて佐々木氏の末裔は、[六角氏=ろっかくし]の"隅立て四つ目"、[京極氏=きょうごくし]の"平四つ目"など、代々"四つ目結"の文を家紋として用いるようになりました。

高貴な文様が特別感を演出

また、武田信玄で有名な甲斐源氏・武田氏の家紋は"武田菱"、そして替紋は[花菱]である事は有名ですが、この替紋の花菱はもちろん、武田"菱"の由来も、元は有職文様の"菱"文様であろうと考えられます。

武田氏が"武田菱"や"花菱"を家紋とするようになったきっかけは、武田宗家の家門を象徴する宝器の一つ、[楯無の大鎧=たてなしのおおよろい]の装飾に用いられた金メッキの鋲が、四ツ割菱と花菱の形状であったため、とされています。

なぜ楯無の大鎧に"菱"や"花菱"の文様が用いられたのかと言うと、そこに特別な由来は恐らく存在せず、「たまたま飾りとして、有職文様の菱と花菱を用いた」というのが正直なところではないでしょうか。

とは言っても源氏の頭領クラスが用いた大鎧です。機能性や実用性の水準の高さはもちろん、外観の華やかさも非常に重要な要素であったことでしょう。高貴さや荘厳さを演出する装飾にこれらの文様が用いられたということです。

こうして[丸に花菱]紋は現代へ

楯無は、甲斐源氏の祖とされる新羅三郎(源義光)が実際に用いたとされています。つまり平安時代中期から後期ごろに作成されたものでしょう。まだまだ武士の地位が低い時代の事です。

しかし、鎌倉時代以降に政治の実権が武家に移ると、武田一族も有力御家人として活躍。室町時代も含めて、一門が日本各地で地頭職や守護をつとめるなど、名門家系として繁栄します。この一族がこぞって、武田菱(割菱)や花菱、松皮菱を家紋としていました。

長く名門として活躍した影響は強く、確実に地域に根ざしていたという事でしょう。現在でも花菱紋は中部一帯や四国など、各地で家紋として用いている家系が存在します。

この[丸に花菱]紋は、そんな花菱紋のバリエーションの一つで、元のデザインを"丸で囲う"というシンプルな差異ということもあって、現在でも全国的に広く用いられている家紋の一つとなっています。

以上が丸に花菱紋の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

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