桜の家紋について
桜の家紋(桜紋)とは、バラ科の落葉広葉樹である『サクラ』の花や枝葉をかたどった家紋種類の一群を言います。※桜紋の種類一覧は、詳細解説の次にあります。下のページ内リンクで解説を飛ばすこともできます。
日本人にとっての「サクラ」は、言わずとしれた観賞花木の王様であり、さまざまな文化・風習の面においても、私たちの営みに密接に関係してきた植物と言える存在です。
まずは、桜紋とサクラにまつわる「予想外の事実」とその詳細
しかし、そうした「圧倒的な認知度」「絶大な存在感」とはうらはらに、家紋としてはかなり普及度の低い部類に属するのが現実だったりするのです。
そもそも「サクラをかたどった」とは言っても、実際に桜の家紋のモチーフとなったのは、今日の私たちの思うあのサクラ(即ちソメイヨシノ)ではありません。
現在、私たちが一般的に目にするサクラであるソメイヨシノは、江戸時代の最末期である19世紀に交配(もしくは自然交雑)により誕生したかなり新しい品種だからです。
また、飛鳥・奈良時代当時の「観賞花木の王様」の座は、「サクラではなくウメのものであった」という事実にも触れておかなければなりません。
なぜサクラではなく、ウメが王様だったの?
あまり知られていない事実ですが、今日において「和の文化の一端を担う」印象の強いウメは、実は「大陸から持ち込まれた外来種」であり、「花木の代表といえばウメ」であったのは、「舶来かぶれ」の「ミーハー」貴族によるところが大きいと言えます。
当時の中国は、圧倒的・超大国の立場だったわけで、(ウメを愛でることも含めて)彼の国の先進的な文化・様式に通じることは、それだけで「ステータス」であり、当時のこれら唐風文化に対する「憧憬」の念は、19・20世紀の「欧米かぶれ」の気風に通じる熱量があったと言っても過言ではないでしょう。
またウメは、単に「憧れの大陸」から伝来した「クールな舶来品」と言うだけではなく、当時の中国自身の文化においても(モモと並んで)「花木の王様」という位置づけであったという事実も大きな要因として考えられます。
「奈良時代」に成立した、現存する最古の「和歌集」である『万葉集』では、サクラを題材とした歌が44種なのに対して、ウメは118種とこれを圧倒していますが、この事実は「いかに当時の人々の関心がサクラよりもウメに向いていたのか」の証左と言えそうです。
桜の家紋化の素地となった、サクラ逆転の経緯とその文化が古代人の生活に溶け込む様子
しかし、こうした「憧れの唐風文化」も、日本人に特有の気質である「移り変わるもの(無常)への受容と共感」を前には、やはり変容を免れ得なかったようで、やがて直接的な中国文化の影響を脱した独自文化である「国風文化」の興隆へと至ることになります。
このような背景に前後して「枯れしぼまず、美しさを残したまま刹那に散りゆく」サクラの無常な儚さに「受容」と「共感」を見い出したのか、我が国における「花木の王様」の座は、ウメからサクラへと徐々に移り変わっていったようです。
結果、平安中期ごろには「満開のサクラのもと、参加者と詩や歌を詠み合い、雅楽器を合奏し、諸芸能(舞楽・演芸)を観覧する」というスタイルの「お花見」文化が確立されています。
このようなスタイルのお花見文化は、朝廷儀式の一環として年中行事にまで組み込まれていたとされる「桜花の宴」を端緒とし、寺社の執行する宗教儀式・行事である「※法会」に「観桜の宴」が付随した「桜会=さくらえ」、摂関家をはじめとした有力貴族が主催する「私的な花見」などへと波及したと言います。
※法会(ほうえ)…寺社において大々的に執行された仏前読経や講説といった厳かな「仏教儀式」と、そののちに催される宴や諸芸能の上演といった「懇親余興」を合わせた当時の行事を言う。
サクラは、このような観桜の慣習以外にも、「桜文様」として早くから意匠化され、衣装・調度に広く用いられたほか、詩歌の題材としても重用されたようです。
ソメイヨシノなき古代期、桜紋の題材となった「サクラ」とは何を指したか?
こうした古代のサクラ文化や、のちの桜の家紋のモチーフとなったサクラが「ソメイヨシノではなかった」のは、前述のとおりです。
では、(実際に桜文様や、桜の家紋の直接の題材となった)古代から中世にかけて日本人が愛でたサクラとは何だったのか?と言うと、日本在来のサクラの野生種・10種(あるいは11種)のうち、『ヤマザクラ』と『エドヒガン』の2品種が主だろうと見なされているようです。
当時の人々の「感嘆」と「名残惜しさ」は、主に「ヤマザクラ」に向けられた
「※ヤマザクラ」は、概ね3月下旬〜4月中旬に開花する種で、「ヤマ」ザクラと言っても、山にのみ自生したわけではなく、実際には平野部や里山と言った人々の生活圏から山地まで幅広く自生していました。
※この場合のヤマザクラの呼称は「品種名」であり、「品種を問わず『山地』に自生するサクラ全般」をまとめて「山桜」とするものとの混同には注意が必要。
現代人が思う一般的なサクラのイメージとは異なり、開花と同時に、赤茶色や樺色(かばいろ)の若葉も芽吹くのが大きな特徴です。
清少納言が、著作の随筆「枕草子」でサクラの趣を「サクラは、花びらは大きく、葉は色濃く、細い枝に咲いているのが良い」と評していますが、これは「花と葉が同時に存在している」前提での評価であり、上記、ヤマザクラの特徴と一致します。
また、内裏の紫宸殿・南庭(だんてい)の左側に植わる「左近桜」や、歴史的な「桜の名所」として今日でも広く浸透している「吉野山のサクラ」は、古来よりこの種であることも押さえておきたいポイントです。
これらの事実は、このヤマザクラこそが、平安時代における「サクラの代表格」だったとの今日の推定を補強するものと言えそうですね。
「エドヒガン」も「平安のサクラ」の主役級と言える
もう一方の「エドヒガン」も日本広域に山・野を問わず広く自生していた種で、非常に長命かつ大木化に至る種であるため、寺社や集落の境界に点在していた成熟個体は、「ご神木」として崇められるケースもあったようです。
このエドヒガンから自然発生した変種を栽培・定着させた「糸桜(または "しだり櫻")」も「平安時代のサクラ」を語る上で重要な存在です。
その優美(←通常のエドヒガンより枝が柔らかく、いわゆる「枝垂れ」が発生することから)な姿を好まれて、寺社や邸宅の庭木、または街路樹に(先のヤマザクラとともに)植栽され、周辺を華やかに彩ったと言います。
このように、エドヒガンも(ヤマザクラほどではないようだが)都周辺では割合ポピュラーな存在だったようで、これも「平安時代のサクラ」として人々に認知されていたと言って良さそうです。
ソメイヨシノが「不在」でも、古代人のサクラへの関わりは非常に多岐に及んだ
また、かつてのサクラにまつわる文化は、こうした「ビジュアル面」にのみとどまるわけではなかったようです。
エドヒガンの開花時期は、ヤマザクラより10日ほど早く、ちょうど(古代・中世当時の)稲作のサイクルの始まりである春のお彼岸(3月中旬)であることから、「※田打ち桜」や「種まき桜」とも呼ばれました。
※「田打ち」…農閑期を経て固まった土を農繁期に向けて耕しほぐすこと。
このような「印象的な開花時期」は、「長寿の大木という神秘性」と相まって、いわゆる「田の神信仰」との結びつきを生み、「山の神が、農閑期の終わりとともに「田の神」と化して人里に降りるための依り代」と考えられるようになりました。
こうしたエドヒガンを通した背景から、サクラは農業とも関わりの深い植物だったと言えます。
以上が古代から中世紀にかけてのサクラを取り巻く界隈の大まかな実情ですが、(代表的な種類は違えど)今日と変わらず人々の営みに深く根ざした存在だったことが分かります。
家紋文化は、平安時代末期ごろに発足後、徐々に成熟していくことになりますが、意匠の面では、すでにビジュアル化されていた各種の文様を元にして紋章化されるのが大抵であり、それはこのサクラの家紋も同様であったようです。
つまり、桜の家紋のモチーフとなったサクラとは、ヤマザクラやヒドヒガン、もしくはサトザクラ類であり、現代の私達のよく知るサクラ(ソメイヨシノ)ではないことが、よくお分かりいただけたかと思います。
圧倒的な認知度と存在感を誇るサクラを象った家紋の著名な使用例が以下だが…
そんな桜の家紋の使用の古くには、南北朝の争乱において足利尊氏方の有力武将として功を挙げ、3代将軍・義満の時代には管領として幕政を主導した『細川頼之』が用いた例があるようです。
しかし、あくまでこれは、(細川氏(京兆家)の代表紋として知られる)引両紋と桐紋に次ぐ、「サブ的」な位置づけであったことには注意が必要です。
また、三河国の「十八松平」の一つで、徳川将軍家の親戚筋である『摂津-尼崎藩主・桜井松平家』が、桜の家紋(桜井桜)を用いました。
そして、この尼崎藩主家を筆頭に、その庶流家である複数の旗本家や、桜井松平氏から養子が入った『藤井松平氏』(下総-古河藩主・出羽-上山藩の両藩主家)にも桜の家紋の使用が見られるようです。
52万石の大藩である『肥後-熊本藩主・細川家』も(有力戦国武将としてもおなじみの)「細川忠興」が、桜紋(細川桜)を用い始めたと言いますが、その由来は、さきの「桜井松平家」と家紋の取り替えが行われたことによる(甲子夜話)と伝わっています。
さらに、徳川家康の覇業に大きく貢献した大久保忠世・忠佐兄弟の輩出で知られる『相模-小田原藩主・大久保家』は、九曜紋から変形させた九曜桜紋を、また『但馬-出石藩主・仙石家』も同じく九曜桜を使用したようです。
しかし、これらの桜の家紋の使用も、実は替紋・副紋としての使用にとどまるものであり、桜を代表紋に掲げた有力氏族の例は容易には見当たりません。
江戸幕府・旗本の使用も(替紋を含めても)20家あまりしか存在しないのが桜の家紋の実情と言えます。
「代表紋としての桜の家紋」が見られるケースは、サクラをイメージさせる苗字(吉野氏・花木氏など)の家や、また、苗字にそのまま桜の文字が含まれる家などに多いようです。
本来であれば、桜紋が「主要な家紋」であってもおかしくなかったのに、なぜ…
それにしても、当時から文化的な影響力が非常に大きかったはずのサクラが、家紋というカテゴリーにおいては、なぜこれほどまでに存在感を示せなかったのでしょうか?
鷹の羽・巴・橘・梅・柏など、サクラと同じく古代期に人々との繋がりが大きかった「対象」は、伝統的な人気家紋として今日においても非常に大きな占有率を誇っていることを考えれば、これは何とも不思議な状況と言えます。
人々と繋がりの深かった他のモチーフが、家紋としても人気を集めたのはなぜか?
思うにそれは、「家名のシンボル」たる家紋を選択する際に、自身や家系には「かくあって欲しい」という祈りや思い入れが、その決め手になるケースが少なくなかったからではないでしょうか。
例えば、「鷹の羽(矢羽根の材料)」「巴(弓矢八幡のシンボル)」「剣片喰」といった家紋が武家に広く用いられたのは、「矢」や「剣」という武士にとっての象徴的な存在が「武門を誇るに相応しい」と捉えられたからだと言えます。
同じく「武門を誇るに相応しい」という視点では、縁起かつぎの語呂合わせで選択されたケースも存在します。「黒餅(石持ち)」や「釘抜き(九城抜き)」は、その典型的な例と言えるでしょう。
※「石持ち(こくもち)」とはつまり「領地(石高)持ち」、「九城抜き(くぎぬき)」とは「九つの城を抜く」に通じる。
また、題材となった「対象」の特徴から見い出された「家名の安定や永続性を願う」という視点も、家紋を選択する際の当時の重要なファクターと言えました。
「松」「橘」は、常緑=葉枯・落葉がないことから「家が絶えない」、「梅」は、厳寒の最中の開花が「過酷な状況でも繁栄する」、「柏」は、翌春の芽吹きまで枯れ葉が枝に留まることから「代替わりがスムーズ」などにそれぞれ通じることが、具体例として挙げられます。
現在、多くの家系に「シェア」を伸ばしている定番・人気家紋の多くは、かつて武家を中心とした有力氏族に(上記のような選択基準を一例として)広く用いられていた側面があったと言えます。
※これら家紋選択の由来は、それぞれが主要な説ながら、あくまで一例であり、他の由来(「各種の信仰対象」「氏神・氏子」「破魔・破邪」といった宗教関連も多い)も伝わっているケースがあることを予めご留意ください。
浮かび上がる桜の家紋が忌避された理由…
ひるがえって桜の家紋はどうだったか?と言うと、やはりサクラが元来持つ「散る」「儚い」というある種の強烈なイメージが、家名のシンボルとするには「不吉」で「縁起が悪い」という心理を呼び起こした可能性は否定できません。
実際、上述の使用例で紹介した「細川頼之」の例では、当時の人々から「物好きの御紋」と揶揄されたエピソードが伝わっているようで、こうした側面からも、桜「文様」は広く使用されたが、桜の「家紋」は避けられていた実態が垣間見えていると言えるのかもしれません。
そしてこれが、今日における桜の家紋の使用家の少なさにつながっていると言えそうです。
神社の神紋・社紋としての桜紋の存在感
反面、神社の紋章である桜の神紋・社紋の例は、家紋の状況と比較すると幾分、豊富な状況と言えそうです。神社ですから、個別の家々ほど「散る」の不吉さを意識する必要はなかったということかもしれませんね。
一部例を挙げると、京都の平野神社(八重桜・山桜紋)と、神戸の生田神社(八重桜紋)は、境内にあったサクラにちなんだものと言い、宮城塩竈の塩竈神社(塩竈桜)もやはり境内にあるシオガマザクラという特殊なサクラにちなんだものと言います。
奈良吉野の吉野神宮(桜紋)と、石川羽咋(はくい)の気多大社(糸輪に向こう山桜?紋)は、サクラの名所であることが由来と言います。
山梨笛吹の浅間神社(八重桜紋)や、山梨富士河口湖の河口淺間神社(八重桜紋)といった浅間神社系の神社は、サクラと関係が深い(と後付けされるようになった)木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を祭神としていることにちなんだものとのことです。
しかし、同じ浅間神社の中には、(浅間神社系の総本社である)静岡富士宮の富士山本宮浅間大社を筆頭に、山梨西八代の一宮淺間神社や静岡葵区の静岡浅間神社などが、桜紋ではない(棕櫚の葉系の紋を使用)ことには注意が必要です。
その他には、福岡博多の櫛田神社(大和桜紋)や石川羽咋の羽咋神社(山桜紋)あたりが桜紋の神社に挙げられます。
また、日本各地に点在し、殉職した各地域の旧軍人や自衛官、警察官、消防士を祀っている「護国神社」の多くで桜が神紋であるのは、「サクラの花の散り様を、人々のために命を捧げた英霊に重ね合わせたから」と言います。
桜紋種の形状について
家紋としての広がりは決して大きくはありませんが、神紋他の紋章としての用途が豊富であったようで、桜紋のバリエーションは比較的多岐にわたっていると言え、その種類は100をゆうに超えています。
そのうち、花びらの先の「切れ込みが鋭い」ものが「山桜」系で、「緩やかなでハート型」のものがただの「桜紋」系と、まずは大きく分けることができます。
通常5枚の花びらの数を、倍に増やして重ねたものは「八重桜」系となり、シベの本数を増やして長くしたものは「向こう桜」系となります。
他の花系紋章と同じく、有職文様の浮線綾を変形させた「桜浮線綾」と他紋との組み合わせや、中心にシベではなく、萼(がく)を描くことで、花の裏側を表現した「裏桜」系のパターンも豊富です。
花だけを用いた紋章だけでなく、葉も同時に用いた「葉敷桜」や「抱き葉桜」、さらに枝も絡めた「枝桜」の紋も存在します。
他の紋にも多く見られる定番の変形パターンで言えば、3つの花を巧みに配置した「三つ割り」系と「三つ盛り」系の桜紋も豊富に存在します。
そして、言わずもがなの変形パターンのド定番と言える「円形」や「方形」などの図形で紋章を囲ったもの、輪郭線のみで紋を表現する「陰紋」類、黒地の図形を地色で抜いた「地抜き」なども健在です。
今日のサクラといえば花にばかり注目が集まりがちですが、かつては、開花と同時に若葉も芽吹く特徴のヤマザクラが代表的なサクラであった名残からか、意外にも花だけでなく葉も巧みに用いた意匠が豊富であるのが印象的ですね。
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