違い鷹の羽|意味や由来の解説。苗字 先祖 武将 有名人は?家系のルーツは辿れる?|家紋フリー素材の発光大王堂

違い鷹の羽

「違い鷹の羽」の高精細フリー画像。

家紋・違い鷹の羽(ちがいたかのは)は、忠臣蔵で知られる浅野一族や徳川譜代の名門・阿部氏、維新の三傑・西郷隆盛らを始めとした名門武家の使用で知られるタカの羽根の紋章の一種ですが、今回はその意味や由来をはじめ、武将などの著名な使用者などについてご紹介しています。

紋章のモチーフとなったタカ(の羽根)と人々の関わり

この家紋は読んで字のごとく "タカの羽根" を図案化した紋章ですが、この生物の羽根が紋章となり、そして家紋として掲げられていく経緯とはどのようなものだったのでしょうか?

それにはこの鳥と古代の人々との関わりが大きなポイントとなってきますので、まずはそちらからご紹介していきましょう。

勇猛なタカとの長きに渡る関わりが『武の象徴』イメージを作り出した

勇猛でスマートな肉食鳥類であるタカは、空の王者として古来より人々に認知されてきました。

違い鷹の羽のモチーフとなったタカ。

日本におけるタカは、有史以前から(おもに)『鷹狩』を通して人々と深いつながりがありました。日本における鷹狩は、たんなる上流階級の趣味にとどまらず、(天皇や上級貴族などの)支配階級による軍事訓練の意味合いも強かったといいます。

タカを手に乗せた埴輪が出土していることから、すでに古墳時代には鷹匠が存在していた可能性が囁かれている。

このような背景から、古代の日本社会では(その勇猛なイメージとも相まって)タカは『武の象徴』として捉えられており、"タカの羽根" はそんな武の象徴であるタカを端的にあらわす存在として扱われたようです。

それは例えば、朝廷の高級武官の正礼装の冠(武礼冠)にはタカの羽根が飾りとしてあしらわれることが一般的であったり、武官の職掌の一つで、天皇の身辺警護を司る庁舎(近衛府)ではタカの羽根が掲げられたりといった具合です。

武官の礼装の冠である「武礼冠」の一例。タカの羽根の飾りが確認できる。

これらの背景から、タカおよびその羽根は『武の象徴』として古くから人々に認知された存在だったといえます。

文化的題材として重用されたことが、のちの家紋化へとつながった

かつての日本には、その特徴や由緒などから、その存在を特別視され、人々と馴染みや深い関わりの生まれた対象は、『文様』の題材とされる文化的な習慣がありました。「桐」「藤」「蔦」「柏」など、その対象は数多にのぼります。

それは(武の象徴の一つとして社会に認知されていた)このタカの羽根も同様であったようです。

現在、多くの家系に普及する人気と伝統を誇る家紋の多くは、こうした「古代文様群」から派生し、紋章化されたものが多いとされますが、それはこの『違い鷹の羽』もやはり同様で、家紋の文化が形成され始めた当初から、いくつかの有力な社家に社紋として掲げられた事が知られています。

「タカの羽根の紋章」を代表紋とした武家の名門

そんな(違い鷹の羽紋の原型である)「タカの羽根の紋章」の確かな最初の使用例は、肥後の御家人・菊池武房とされ、『蒙古襲来絵詞』にそのさまが描かれています。そして実際にその肥後の菊池氏の代表紋は代々、『(並び)鷹の羽』紋であったことが知られています。

蒙古襲来絵詞に描かれた菊池武房一党。

「タカの羽根の紋章」普及のきっかけとなった菊池氏とは?

菊池氏は、藤原氏族を自称し、九州の行政機関に赴任したことを機にこの地と関わりを深め、やがて肥後国・菊池郡に勢力を築いたことから、菊池を名乗ったと伝えています。

筑前の少弐氏、豊後の大友氏らと並び、九州を代表する古来よりの武家の名族であり、特に南北朝期における彼らは、後醍醐天皇の皇子を奉じて九州の首府である大宰府を制圧、その後10年余りに渡って九州支配を確立したことにより、歴史にその名を残した存在です。

これほどの実績を持つ菊池氏ですが、現代においての知名度がそれほどでもないのは、その後、宗家の跡目争いが頻発したことで勢力の弱体化を招き、注目度の高い戦国期の本格化を前にして滅亡の憂き目にあったことがその要因といえそうです。

「タカの羽根の紋章」の出処と、それを菊池氏が掲げるようになった経緯とは?

「タカの羽根の紋章」を使用した名族として、後世に知られる菊池氏ですが、彼らがこの家紋を掲げる由来となったのは、『阿蘇神社』との関係が指摘されています。肥後国で最も高い社格に設定される『阿蘇神社』は、2000年を超える歴史と全国500社に及ぶ分社を持つ由緒正しい神社です。

阿蘇神社は、菊池郡と隣り合う阿蘇郡に位置していることもあり、菊池氏とは古くからつながりが深く、一説には、菊池氏が阿蘇神社を信仰していたため、この2者は『氏神・氏子』の関係にあったともいわれているようです。

それが確かであれば、阿蘇神社の神紋が「タカの羽根の紋章」であったことが、菊池氏のものにつながったと考えて良さそうです。氏子が氏神の神紋を家紋に据えるケースというのは、特に珍しいものではないようで、例を挙げれば徳川家の葵紋が代表的なところです。

三河の松平一門は賀茂神社神領の荘官であり、氏神として信仰していたらしい。

違い鷹の羽紋が広く普及していく流れ

支配階級として長らく存続した菊池氏の血脈の広がりは、肥後の地だけにとどまりません。

菊池氏の血の広がりも普及の要因の一つといえるかもしれない

その庶流から派生した赤星・城・甲斐・西郷の各系統が、主家衰退後も九州の地で一定の影響力を保持したことで知られ、特に西郷氏からは "維新三傑" の一人である『西郷隆盛』が輩出されています。

維新三傑の一人である西郷隆盛は、その出自を遡れば菊池氏にまで行き着く。

またその血は九州だけにとどまらず、関東や東北にも広がったといいます。特に岩手県遠野の周辺には、家紋に『タカの羽根』を掲げた「菊池」または「菊地」の姓が多く分布しており、遠野市では現在でも世帯全体の約2割が「菊池(地)さん」であるとのことです。

違い鷹の羽紋を含む「タカの羽根の紋章」は、このようにして徐々に全国的な分布へと発展していったようです。

代表的な『尚武紋』であったことが、武家の支持を集めた要因

当時、菊池一族の使用で広く知られた「タカの羽根の紋章」ですが、宗家の没落後は一族以外の使用(とくに武家によるもの)が目立つようになったといいます。

このような状況が生まれた要因は、『タカの羽根=菊池』の "イメージの主体となっていた存在" が姿を消したことはもちろんですが、そもそもこの紋章には、強い「尚武(武を尊ぶことをいう)」の意味合いが込められていたことも大きいといえそうです。

この紋章のモチーフとなったタカの羽根(タカ)が、『武の象徴』とみなされていたことに関しては、最初にご紹介したとおりです。武門に生まれ、武門を誇る者であれば「この紋章をしてその象徴とするにふさわしい」と考えて不思議はないのではないでしょうか。

戦国以降は浅野一族の使用で知られる

菊池一族の他に「タカの羽根の紋章」を使用した武家といえば、まず『浅野氏』が挙げられるでしょう。

浅野氏といえばその代表的な人物に、元はあの「織田信長」の家臣で、のちに「豊臣秀吉」に重用された「浅野長政・幸長」親子が挙げられます。この時代の浅野氏の家紋は、オーソドックスな『違い鷹の羽』紋だったようです。

江戸幕府の大藩となる以前の浅野氏は、違い鷹の羽紋紋を使用していたとのこと。

浅野氏はのちに大藩として知られる安芸・広島藩をはじめ、一族で複数の藩を統治する名門氏族へと出世したことで知られます。(この頃になると、渦巻き模様が特徴的な『浅野違い鷹の羽』という独自の紋章を作って変更したといいます。)

その分家の一つである赤穂・浅野家が『(丸に)違い鷹の羽』紋であったことは、忠臣蔵ファンを中心によく知られた事実ではないでしょうか。

忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は丸に違い鷹の羽紋を使用した。

江戸幕府のエリート官僚を始め、多くの武家の使用がみとめられる

三河(時代)以来の徳川譜代の臣である『阿部氏』も『タカの羽根の紋章』紋の使用で知られています。

阿部氏は、備後・福山藩を宗家に、陸奥・白河藩、上総・佐貫藩の2大名家をはじめ、多くの分家を旗本にもち、若干27歳で老中首座を務めた阿部正弘をはじめ、優秀な幕閣を幾人も輩出したことで歴史に名を残す名門一族です。

以上のように、武家の間で広がりを見せ始めた『違い鷹の羽(タカの羽根の紋章)』ですが、江戸時代には、大名・旗本クラスを中心に、120を超える家系でその使用が確認されています。

一般への家紋の普及と違い鷹の羽

家紋はその誕生以来、「公家」「武家」「社家」「寺家」の特権層に特有の慣習・文化でしたが、江戸時代になると庶民階級にもその普及が始まります。

江戸幕府による厳格な身分制度の導入により、一般庶民には苗字の公称が許されなくなった背景もあり、家の識別に家紋を用いるという社会通念が発達していったと見られています。

商人に代表される屋号紋や、粋な男女の "洒落紋" である比翼紋、さらには(江戸時代の身分制度においては比較的身分の低かった)遊女や役者・噺家までもが自由に家紋を決めて使用するなど、家紋文化が一気に花開いて一大ブームが巻き起こったといいます。

江戸の家紋文化の中から生まれた「比翼紋」の例

そうした状況や通念に適応する必要に迫られて、にわかに家紋を導入した家々も少なくなかったことを考えれば、庶民階級の家紋の由来にいちいち特別な謂れが存在するケースがどれほどあったでしょうか。

それらは単に「縁起担ぎ」だの「形が気に入った」だのであったり、お公家やお武家などの「由緒正しい紋所」や(信仰上のつながりから)氏神・檀那寺の「ありがたい紋章」にあやかったり、村役人や住職といった地元の有力者に相談したりといったケースが大抵であったようです。

五大紋の一角を占めるまで増殖した鷹の羽

これまでのご紹介の通り、すでに武家を中心とした特権層に広く普及していた「タカの羽根の紋章」の場合は、そこから枝分かれを繰り返しながら増殖した多数の傍流家系が引き継いだケースはもちろん、「(身近な)名門家系にあやかった」というケースも多かったのではないでしょうか?

いずれにせよ、家紋の全体数が飛躍的に高まったこの時期に多くの人々の支持を集めたことが、「タカの羽根の紋章」の占有率が五大紋の一つに挙げられるほど高いものとなった要因といえるでしょう。

五大紋のイメージ画像

違い鷹の羽紋の使用家に特有の苗字や地域とは?家系のルーツは?

特権層による使用が主だった近世以前の家紋は、それぞれの家系的な出自を端的に示し、また結束を固める役割(土岐一族の「桔梗」紋・武田一族の「」紋など)を果たしていました。

かつては家系に特有の家紋だったものの一例

しかし家紋を取り巻く環境が、先に述べた江戸時代以降のような状況(血縁的な繋がりや連続性とは無関係な家紋使用の急速な広がり)になると、このような役割を果たす機能は(当然)失われてしまいます。

ましてこの「違い鷹の羽」紋は、指折りの普及度を誇る「タカの羽根の紋章」の中にあって、(派生型の「丸に違い鷹の羽」紋とともに)段違いの占有率となる家紋ですから(こうした傾向がより顕著であったことを考えれば)、「家紋が違い鷹の羽」という情報だけでは家系のルーツを辿るのは難しいと言わざるをえません。

同じような理由で(かつ、そもそも特定の氏族による独占紋ではなかったこともあり)、「違い鷹の羽」紋に特有の苗字に関しては特に取り立てたものは存在しないようで、実にさまざまな苗字の家系に使用されているタイプの家紋といえます。

地域に関しては、もちろん全国規模で普及がみられますが、強いていえば関東地方とやはり出どころである九州地方が多いようで、中でも鹿児島県、熊本県、千葉県、神奈川県などが目立つようです。

以上が【違い鷹の羽】紋の解説でした。鷹の羽紋についてさらに詳細に知りたい方は↓こちらから。

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