抱き沢瀉

家紋「抱き沢瀉」の高精細フリー画像。

家紋『抱き沢瀉(だきおもだか)』は、オモダカ科の多年生植物である『オモダカ』の主に葉の部分をかたどった家紋種類の一群である沢瀉紋の一種です。

特徴的な鏃形をしたオモダカの葉

沢瀉紋は、福島正則や浅野幸長といった豊臣秀吉の親族衆のほか、安芸・毛利氏、三河・水野氏などの有力武家を始め、多くの武士に愛好されたことから、現代においても使用家系の多い家紋の一つとなっています。

抱き沢瀉の元となった植物・オモダカとは?

オモダカは、水田や沼地、沢などといった湿地に自生する抽水性の植物ですが、その特徴は何といっても「一目見て誰もが印象的と感じる」であろう、その『葉』にあります。

オモダカの持つ特殊な形状の『葉』が、抱き沢瀉を紐解く鍵?

植物の葉の「葉先」といえば、通常 "1つ" であることが一般的ですが、オモダカの場合は、葉身の根本を中心として、何と3方向へと分散伸長するという大変珍しい特性を有しています。

その印象的な形状は、古来より弓矢の「鏃(やじり)」を思わせるものであったことから、特に武士層から「勝軍草(かちいくさ)」と縁起担ぎされたと言います。

それ故か、家紋としても武士階級に使用が多く、今日においても広い普及が見られる家紋の一つとなっているわけです。

また、オモダカは「面高」とも書きますが、これはその特徴的な葉の形状に加えて、先端に向かって伸びるクッキリとした葉脈が隆起して見えることが『人面』を思わせ、さらに葉の位置が水面から離れた『高い』位置にあることに由来すると言います。

この「面高」の名が「面目」に通じることも、体面の保持を重要視する武士に好まれる要素であったと見られているようです。

漢字表記として主流の「沢瀉」については、オモダカ自身が、『沢』の水が『瀉』ぎ(注ぎ)込む先(水田・沼地などの湿地)に生える植物である事に由来すると言います。

オモダカが家紋へと至った背景

こうした「奇妙な形の葉」が古代の日本社会においても人々の注意を引いたのか、オモダカは早くから『沢瀉文様』として「意匠(ビジュアル)化」されていたことが分かっています。

沢瀉文様は、古来より公家社会の華やかさを演出する要素の一つして機能

まず12世紀ごろの公家社会における行儀・作法の実態を著した記録書である『餝抄(かざりしょう)』には、村上源氏の嫡流・久我家が沢瀉文様を車文に用いた記述が見られます。

また、同じく12世紀当時の故実関連を整理・再編した史料である『大要抄』によると、六条藤家流の藤原季経・経家・季能などがやはり沢瀉文様を車文に用いたようです。

以上の例から分かるように、沢瀉文様は、絢爛優雅な貴族社会においてもそれなりに愛好されていたと言えるでしょう。しかし、この公家衆よりもさらに『オモダカ』の存在を重んじたと見られているのは【武家】だったと言えそうです。

武家と沢瀉紋(オモダカ)との深い関わりとは?

平治の乱の始末を描いた『平治物語』や、源平合戦を主題にした『平家物語』『源平盛衰記』といった軍記物語には、武家が装束である「直垂」や合戦に用いる「甲冑」の※縅(おどし)に沢瀉文様を用いている様子が描写されています。

※こうした縅を『沢瀉縅(おもだかおどし)』という。

沢瀉縅の甲冑のイメージ画像(東京国立博物館蔵 / 出典:ColBase)

室町時代ごろまで武士に用いられた甲冑である「大鎧」や「胴丸」は、その主体部が短冊状の鉄や革の小さな板(小札=こざね)を紐(縅=おどし糸)で、無数に「縅(おど)す」(つなぎ合わせる)ことで構成されていますが、『沢瀉縅』とは、大袖(肩)や草摺(裾)部分の縅に色違いの複数の縅糸を用いてオモダカの葉を模したシンプルな三角形の模様を施したものをいいます。

小札と縅のイメージ画像

重代の清和源氏・嫡流に引き継がれていたとされる八種の大鎧・『源氏八領』のうち、『沢瀉』と号された甲冑には「沢瀉縅」が施されていたと伝わることから、縅を沢瀉模様に装飾する文化は武士の黎明期から存在していたことが分かります。

この「沢瀉縅」は、源平時代以降も縅の定番バリエーションの一つとして、長きにわたって定着しました。

以上のことからオモダカは、武家の公(甲冑)私(直垂)にわたる営みに深く根ざした存在だったと言っていいでしょう。

武家はなぜ、沢瀉紋(オモダカ)に深い関心を寄せたのか?

武士がこのようにオモダカを「特別視」したのはなぜかと言うと、これは先述した通り、オモダカの葉が弓矢の鏃を思わせる形状であるからですが、ではなぜ鏃のような葉を特別視の対象とする武士が一定数、存在したのでしょうか?

それは、古来より武家社会には「弓矢は武の象徴」というトラディショナルな価値観が深く刻み込まれていたからに他なりません。

これは、古代の武官や平安・鎌倉武士が重んじた技能の第一は(槍でも刀でもなく)『弓矢』であったことに端を発しおり、今川義元や徳川家康をして「海道一の弓取り(東海道随一の武将)」と称したように、後世においてもなお、「弓取り」という語が「武士そのもの」を指していた事実からも窺い知ることができます。

ただ、こうした背景はオモダカ(沢瀉紋)だけに特有のものではなく、同じく武家に愛好され、広く用いられたことで知られる『鷹の羽紋(←タカの羽根は矢羽根の材料)』『巴紋(←弓矢八幡のシンボル)』『矢紋(←弓矢そのもの)』などでも「同様の構図」が成立していたという事実も押さえておきたいところです。

いずれにせよこうした背景が、のちのオモダカの紋章(家紋)化を促し、そして武家を中心とした広範な普及へと繋がっていったと見て良いのではないでしょうか。

沢瀉紋の著名な使用例

沢瀉の家紋の史料上の初出は、「越中の分郡(新川郡)守護代家である椎名氏」とされているようです。

永享7年(1435)に鎌倉公方勢が常陸の長倉遠江守を追討する顛末を題材にした戦記物である『※長倉追罰記』のうち、参加諸将の宿陣の紋幕の列挙部分に「椎名カヲモタカ(←椎名氏が沢瀉)」とあることがその根拠とされています。

※巷間では、この『長倉追罰記』を『羽継原(はねつぐはら)合戦記』と混同し、後者を「沢瀉紋の初出は椎名氏説」の根拠に挙げる傾向にありますが、この両者はそれぞれ別の史料のようですので注意されたし。

あまり知られていないが、実は沢瀉紋は豊臣秀吉の一門と関わりが深い紋章

沢瀉紋使用の著名例のうち、代表的なものの一つに「木下氏・浅野氏など、豊臣秀吉の親族に多く見られる」というものがあります。

まず、秀吉の正室・高台院の甥で、豊後・日出(ひじ)藩主となった「木下延俊」が『木下沢瀉』を使用しています。

秀吉の義実家(高台院は浅野家への養子を経ている)に当たる「安芸広島藩主・浅野家」も替紋に『半開き扇に沢瀉(浅野扇)』を据えています。

賤ヶ岳七本槍の一人で、秀吉のいとこに当たると言われる「福島正則」も『福島沢瀉』の使用で有名です。

大阪の陣までの戦国武将が用いた旗印・馬印・指物類を図示した画図集である「諸将旌旗図(しょしょうせいきず)」には、実の甥に当たる関白・豊臣秀次の使用した陣旗が立ち沢瀉紋で示されています。

このように、親族で沢瀉紋を共有しているようにも見える環境もあってか、秀吉自身も関白宣下に前後して桐紋の下賜が行われる以前は、沢瀉紋を使用していたと見る向きもあるようです。

中国地方の群雄・毛利氏と沢瀉紋

また、『寛政重修諸家譜(←江戸幕府編纂の家譜集。大名・旗本を網羅)』に、萩藩主・毛利家(安芸・毛利氏)の替紋として「澤瀉(長門抱き沢瀉)」が記載されています。

寛政重修諸家譜・毛利氏の項に替紋が沢瀉紋であることが示されている。(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

安芸・毛利氏とは、「大江広元(←源頼朝側近で、鎌倉幕府・政所別当)」の後裔氏族で、相模国・毛利荘を根拠地に発足したのち、安芸国・吉田荘に分流した系統を言います。

戦国期に安芸の地域豪族の立場から、一代で山陰・山陽道6カ国を支配する大勢力を築いた「毛利元就」を輩出したことで、今日でも高い認知度を誇っています。

毛利氏の沢瀉紋使用の由来は、その元就がある合戦の折りに、オモダカにトンボがとまっているのを目にして「勝軍草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と自軍を鼓舞し、勝利したことにちなんだと伝わります。

安芸・毛利氏が替紋に使用した家紋・長門抱き沢瀉のイメージ画像

これは(勝軍草は(冒頭の通り)オモダカを指すとして)、トンボは「必ず前方向に飛行し、引くこと知らない特性が「不退転」に通じる」として『勝ち虫』と見なすことが、かつて一般的だったことが背景にあります。

譜代を始め、江戸幕臣にも広がりを見せる沢瀉紋

さらに、徳川将軍家の譜代大名家の一つで知られる水野氏の一族も沢瀉紋の使用で知られます。

水野氏とは、経基王の次男・源満政(鎮守府将軍)の後裔氏族で、最初、尾張国・小川庄を根拠としたことから小川氏を名乗り、のちに同国・水野郷に移ったことから、水野氏を称した氏族を言います。

同氏は、徳川家康の生母である「於大の方」の実家であった関係もあって、宗家筋にあたる「下総・結城藩主」家の他、天保の改革を主導した水野忠邦を始め、3名の老中を輩出した「近江・朝日山藩主」家など、多数の江戸幕府大名・旗本家を擁した名門武家です。

これら水野一族は、宗庶を問わず多くの系統で沢瀉紋を使用したため、「水野氏と言えば沢瀉紋」というイメージを持つ人も少ないくないようです。

水野氏の沢瀉紋の由来ははっきりしていませんが、一説には同氏が以前の根拠地にしていた小川地方にオモダカが繁茂していたことにちなむのではないかとされているようです。

その他、下総・古河藩主「土井家」、志摩・鳥羽藩「稲垣家」、豊前・中津藩「奥平家」など、幕府直臣の大名・旗本に限っても100家以上の武家に沢瀉紋の使用が見られるようです。

抱き沢瀉について

以上のように、沢瀉紋は広く武家社会に浸透したこともあって、今ではその種類も百数十種を数え、十大家紋の一つに挙げられるほどの広範な普及を果たしています。

そんな沢瀉紋の中にあって、この抱き沢瀉紋は「代表格」でかつ「基本形」的立ち位置である『立ち沢瀉』(←正面視点の葉付きの茎を中央に、花付きの茎を左右に配した意匠)に匹敵するほどの存在感とシェアを誇っていると言えます。

家紋の中でも、こうした「一つの紋種に対して代表的な紋章が並立状態にある」ケースはそれほど多くなく、「茗荷紋における抱き茗荷」や「鷹の羽紋における違い鷹の羽」「目結紋における隅立て四つ目」といった「絶対的な存在」を抱える紋種とは、一線を画する状態と言えます。

立ち沢瀉と抱き沢瀉を並べたイメージ画像

「基本形」という面でも、数ある沢瀉紋種において、抱き沢瀉の意匠から変形・派生した「抱き沢瀉系・沢瀉紋」は、「立ち沢瀉系・沢瀉紋」とシェアを分け合っていると見るのが妥当と言える状況となっています。

上記、武家を中心とした「主な使用例」を見ても、木下延俊と毛利元就(替紋)は抱き沢瀉系の使用ですが、福島正則や豊臣秀次(陣旗)は立ち沢瀉系を使用しています。

江戸幕府の有力譜代氏族の一つで、沢瀉紋の使用で著名な水野氏においても、宗家筋である「下総・結城藩主家」が抱き沢瀉系なのに対して、他の主要4家の「近江・朝日山藩主家」「上総・菊間藩主家」「上総・鶴巻藩主家」「紀伊・新宮藩主家」の紋章は、立ち沢瀉系だったりします(※統治藩名は廃藩置県時)。

このあたりが、現代における沢瀉紋の種類の分布が、「1極」ではなく「2極」となっている状況の要因と言えるかもしれませんね。

以上が【抱き沢瀉】の解説でした。その他の沢瀉紋については↓こちらから。

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