丸に梅鉢

家紋・丸に梅鉢の素材。高精細フリー画像

丸に梅鉢紋は、梅の花をモチーフに図案化した梅紋の一種です。今回はこの丸に梅鉢紋の意味や由来を紐解いていこうと思います。

現代においては、花見の習慣や詩歌に用いられる題材はもっぱら[桜]の独壇場ですが、古代日本においては、その感覚をそのまま[梅]に置き換えても良いくらい、梅はポピュラーな植物で、桜はむしろマイナーな存在でした。

花見といえば[梅]、調度品の文様も[梅]、和歌に読まれる題材は、これも[梅]という具合に。実際、奈良時代編纂とされる万葉集に読まれた和歌のうち、桜が題材の歌が40首程度、しかし、梅が題材の歌は110首程度と梅の存在感が際立ちます。

春先のj-popのヒットチャートに、梅を題材にした別れの歌が溢れかえったらものすごい違和感ですが。正直、それにしてもなぜ梅?と思ってしまいますが、それには当時の時代背景が大きく関係しています。

奈良時代あたりの日本は、まだまだ国風文化が花開いておらず唐風文化が全盛でした。支配階級は、物珍しい大陸伝来の文化に夢中で、むしろそれが一種のステータス。身に付けるものから、遊興から、政のしきたりまで全てが唐風に染まります。

まるで明治維新直後の近代日本のような感覚でしょうか。三種の神器の一つとされる、草薙の剣も銅製の両刃直刀。まだまだ日本刀のような文化の独自性を見出すには至りません。

美しい花一つとっても、藤より牡丹、牡丹よりも菊と、何やら無節操な気がします。実は牡丹や菊だけでなく、[梅]も奈良時代に大陸より伝来した外来種の植物なのです。当時のエスタブリッシュやインテリが[梅]に飛びつくのも頷けます。

いくら外来種といえども[桜]の美しさの前には霞んでしまうとお思いの方もいらっしゃるでしょう?しかし、現在の花見の主役・ソメイヨシノは、江戸時代後期に交配により誕生した新種。当時は公園にも、丘にも、並木にも、土手沿いにも[桜]など植わってはいなかったのです。

国風文化が花開いたのは、摂関政治の全盛により、政治の固定化=安定化が実現した平安時代中期ごろで、日本固有の文化が様々な分野で芽吹き始めます。「吉野の桜が〜」などと言い出すのもこの頃からです。(しょせん山桜ですが。)

しかし、すでに伝統的な文様の一種として定着した[梅]紋は、このような経緯で後の紋章や家紋への下地となったのです。

衣類や調度品に描かれる文様として定着した梅紋ですが、本項の題材である梅鉢紋属は通常の梅紋に比べて、より図形的に捉えられた意匠となっているのが特徴です。図案にある種の規則性が見られるため、幾何学的であるとも言われます。文様の中心が雄しべや雌しべの部分。外側の5つの丸い図形が花弁となっています。

梅の花の花弁を、このように丸い図形に置き換えたのは、梅の花のそれぞれの花弁の形が桜の花や桃の花に比べて、より丸い形状であるという特徴から来ています。この丸い花弁の部分を太鼓のバチに見立てたことが、[ウメバチ]の名の由来されています。

この梅紋は当初、家紋というより全国の天満宮系の神社で神紋として使用されていました。ではどうして天満宮の神紋には梅紋が用いられることが多いのでしょうか?次はその経緯を見てみましょう。

そもそも天満宮とは、菅原道真を祀った神社のことを言います。菅原道真とは、生まれの家系そして自身ともに生粋の学者でかつ、さらに清廉な人柄で知られた、平安時代前期ごろの人物です。

このように権力闘争には、およそふさわしくない境遇にありながら、当時の並み居る藤原氏族の有資格者を抑える形で、最終的に従二位・右大臣に任官という、その家格に対して著しく不相応ともいうべき大出世を果たした事でも有名です。

菅原道真は、当時の官僚養成機関で、漢文詩を教える教官である[文章博士(もんじょうはかせ)]という地位にありました。

漢文詩は当時、非常に重要視された科目で、文章博士は諸博士の中でも事実上の筆頭とされ、そのため官位も他の博士達に比べて、格段に上位(従五位の下)に設定されていたのです。

さらに、この文章博士は受け持つ教科の重要性から、通常職務のかたわら、天皇や摂関家の[侍読(家庭教師)]を務めたり、重要文書の作成を行ったりすることから、政権中枢との距離が近くなるのが常でした。

そうなって来ると、どうしたって学者からも役人からも妬みの対象となるものです。さらに菅原道真は[できる男]でもあったため、当時の宇多天皇の寵愛を受け、その家格からは(当時の常識的に)考えられないほどの出世を果たしてしまうのです。

当時の朝廷では、のちの摂関政治体制へつながっていく過渡期とも言える時期で、肥大化していく藤原氏の権勢に対する牽制の意味合いもあったといいます。

そして、次の醍醐天皇体制となった時に、道真はついに右大臣の地位に昇進します。全ての人臣におけるナンバー2の存在です。ここで無難に過ごしていれば、問題は無かったのかもしれませんが、彼は当時の上流貴族が不利になるような改革を行おうとします。

これがいけない。自分の一族が不利となる改革を、籐氏長者である左大臣・藤原時平も捨て置くわけには行きませんでした。時平は道真排斥の動きに出ます。

藤原氏に限らず、上下流の全ての貴族に影響が出るのですから、この動きに同調する者も多かったといいます。清廉な理想を貫くことに固執し過ぎたのかもしれません。正論やキレイ事だけでは、渡世は出来ない良い例ともいえます。

能力のある道真のことですから、彼自身に隙はなかったのですが、排斥勢力の讒言により、道真は九州・太宰府の地に左遷されてしまいます。讒言なのですから要するに、有りもしない野心をでっち上げられたのです。

左遷と言っても、その宛てがわれた役職は名ばかりで、勤務先となる行政機関にも出入りできず、あばら屋に押し込められ、非遇な余生を過ごすこととなってしまいました。監視の目が光ることはおろか、時には暗殺者まで現れたといいます。

道真は、過酷な生活から抜け出すことなく、太宰府の地で没します。長くなりましたが、ここからが天満宮と菅原道真とのお話になります。そしてここからも長いです。

「丸に梅鉢」のベクターフリー素材のアウトライン画像

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