五三の桐|意味 由来の解説。家柄 苗字 使用例なども網羅|家紋フリー素材の発光大王堂

五三の桐

家紋「五三の桐」の高精細フリー画像。

家紋・五三桐(ごさんのきり)とは、かつては皇室専用の紋章であり、足利尊氏や豊臣秀吉といった歴代国家指導者の使用でも知られる桐花紋の一種ですが、今回はそんな五三桐紋の意味や由来を始め、苗字や使用家系による家柄の貴賤、また使用した戦国武将などについて迫ってみたいと思います。

家紋・五三桐の成り立ちまで

この家紋は、古代中国の「瑞獣(ずいじゅう)」思想との結びつきから、古来より吉兆の証しとして東アジア圏において神聖視された植物である『キリ』の葉や花を象ったものです。

瑞獣思想とは?なぜ五三桐のモチーフであるキリが神聖視された?

『瑞獣』とは、日本でもその名を知られる「麒麟」「鳳凰」「応竜」「霊亀」といった古代中国において考え出された超常の能力や形態を持った架空の生物をいい、そして『瑞獣思想』とは、これら瑞獣の「出現」それ自体を(何らかの)「良い兆し」と信じる思想をいいます。

このうち『鳳凰』は、霊泉と呼ばれる泉の水を飲み、120年に一度だけ結実するとされる竹の実をその餌とし、【止まり木には唯一『桐』の木を選ぶ】とされます。そしてこの鳳凰の出現は「徳の高い指導者が誕生し、平安な治世が訪れる」ことの前触れと考えられていました。

古代中国の瑞鳥「鳳凰」。桐を唯一の止まり木とする。その伝承は「五三桐」の由緒と関わりが深い。

鳳凰の出現が示すこうした吉兆は、「高い徳を備え、天下を泰平に導く指導者」たらんとする中華皇帝のような存在にとって特に望ましいものであり、(出現した鳳凰が長く留まるという意味で)その止まり木であるキリに縁起を担いで特別視する風潮が、かつて存在したといいます。

日本においても重要視された鳳凰伝説によってキリの文様は高い価値を有した

日本においてもこうした中国神話とそれに基づいた思想・価値観はすんなりと流入し、受け入れられたようですが、当時(政治・軍事・経済・産業・文化といった)あらゆる分野において周辺国を圧倒し、超大国然とした国力を有していた古代中国と、その中国を研究・学習の対象としてとらえていた日本という関係性を考慮すれば、ごく自然な成り行きといえるでしょうか。

特に中国の皇帝さえもありがたがった鳳凰にまつわる神話は、大陸からもたらされる習慣や文化に憧れを抱く者が少なくなかった当時の朝廷においてもやはり重要視され、これを端的に表現した【桐】【竹】【鳳凰】の文様(桐竹鳳凰文)が特別な吉祥文様として扱われるようになりました。

桐竹鳳凰文の一例。このうちキリの紋章を皇室の紋章とするが、当初のキリの紋章はご覧の通り「五三桐」となっている。

桐竹鳳凰文は、天皇の伝統的な礼服(らいふく)であり、現在においても「(現・皇室最高の儀礼である)即位の礼」をはじめ、種々の宮中祭祀で着用される【黄櫨染御袍(=こうろぜんのごほう)】の文様として特に知られているものです。

日本国天皇の専用の束帯装束。その装飾には桐竹鳳凰文が用いられる。

「黄櫨染御袍」は、嵯峨天皇の詔勅(西暦820年)により、天皇の礼服として正式に規定されましたが、「天皇の礼服と同色の衣服を人臣が着用するのは畏れ多い」という観点からか、これ以降「黄櫨染め」にした衣服は、皇族以外は着用しない「禁色」の扱いとなったといいます。

衣服の『色』がそうであるならば、その『柄』に関しても同様の考えが大勢を占めたとして何ら不思議はなく、桐竹鳳凰文は徐々に皇室が専らに用いる文様となっていったようです。

五三桐のデザインのモチーフについて

ただ、鳳凰神話の本場である中国において鳳凰の止まり木とされる "桐" とは、アオイ目アオギリ科の落葉樹である『アオギリ(梧桐)』のことであり、日本において一般的にキリと認識されるシソ目キリ科のものとは完全な別種だったりします。

五三桐の由来となった木は「アオギリ」で、デザインの元となった木は「キリ」という食い違いが生じているという。

現代に伝わる桐の紋章および文様の(お馴染みともいえる)あのデザインは、シソ目キリ科のものをモチーフにしたとされるため、"由来" と "デザイン" の元が一致しないというおかしな状況となっているようです。

平安時代の著名な女流作家の作品に「キリの花の紫色の咲き振りは風情があって、さすが唐の地で鳳凰の止まり木とされるだけはある」といった意味の記述があるように、キリとアオギリの取り違えは神話の伝来当時からのものかもしれません。(アオギリに紫の花はつかない。※比較画像参照)

キリの文様は家紋・五三の桐となり、皇室の専用紋へ

時代を経て、【桐】【竹】【鳳凰】はそれぞれ単独の紋章としても成立していきますが、朝廷においては【桐】が特に重用されたようで、これがやがて皇室専用の紋章となっていくことになります。

当初、皇室が専らに用いていたキリの紋章は、桐竹鳳凰文に描かれている通り『五三桐』でしたが、のちにより優雅な印象を与える紋として、花序の花の配置が[5-7-5]となる、ゴージャスな『五七桐』が作成され、最終的にはそちらの方をより上位格の紋章としたようです。

現在では「五三桐」の上位に位置付けられる「五七桐」。時期は判然としないが、後の時代に作られたものだという。

皇室の紋章といえば『菊の御紋』の印象が強いけれど…

天皇の紋章といえば、一般的には『菊の御紋』ですが、その歴史は案外に浅く(「承久の乱」を招いたことで知られる)『後鳥羽(ごとば)上皇』が13世紀前後ごろに衣服や調度品の文様に菊花紋を用い始めたことが始まりでした。

「十六八重表菊」紋の皇室の紋章としての歴史は「五三桐」紋に勝るものではない。

後鳥羽上皇は、菊と日本刀が殊のほかお気に入りで、お抱えの刀工に打たせた刀に自ら焼刃を入れては、タガネで菊紋を彫り込んだというエピソードが残っています。

自らの印として用いるほど菊紋を愛した後鳥羽上皇ですが、後継の天皇もこれに倣ったことから、菊花紋章は徐々に皇室の定紋として定着していきました。一方、皇室によるキリの文様・紋章の専用化の端緒となった嵯峨天皇の治世は7世紀初頭ですから、皇室の紋としての由緒は、桐花紋の方が随分と先行していたといえます。

皇室の紋章から一般社会へと浸透していく端緒となったのは?

このように長らく天皇家の公の紋章となっていたキリの紋章ですが、『後醍醐天皇』により『足利尊氏』に下賜が行われたことから、皇族以外の者が表立ってキリの紋章を使用出来る前例が生まれました。

後醍醐帝の悲願と足利尊氏の比類なき勲功が生んだ五三桐の一般化

後醍醐天皇は、武家政権(鎌倉幕府)を打倒し、天皇親政(天皇が直接政治を行うこと)を実現させたことで大変有名な人物です。

そして、その倒幕の勲功第一とされたのが「足利尊氏」であり、その恩賞は「従三位の官位」と「全国29箇所に及ぶ領国経営権」、「天皇の諱(いみな=本名)「"尊"治」の偏諱(へんき=貴人の名の一文字を授かる)」などとともに、【キリの紋章の下賜】も行われます。

キリの紋章の下賜が公に行われた際の主従である後醍醐帝と足利尊氏

尊氏個人に限っていえば破格の待遇といえるでしょう。この時点での、天皇の諱の一字拝領と専用紋の使用許可は前代未聞です。鎌倉政権が体制を整えて以降、再び朝廷に政治の実権が戻ってくることは、それ程の絵空事だったといえたかもしれません。

しかし後醍醐帝の建武の新政は、発足後まもなく崩壊。朝廷は南北に分裂し、尊氏は室町幕府を開府するなど事態は大きく動きます。

次々に生み出される新たな先例

ここで、後醍醐帝より拝領したキリの紋章は、足利宗家(尊氏)の覇業に付き従い、室町政権下でも影響力の強かった「足利一門衆(分家)」である吉良氏・今川氏・細川氏・斯波氏・一色氏などの諸氏にも分け与えられます。

後醍醐天皇より、桐紋を下賜された足利氏とその一門衆の家系図。

足利宗家と足利一門衆の定紋は、あくまで『引き両』紋の系統なので、キリの紋章の使用頻度は高いとはいえませんが、徐々に臣民籍階級(皇族ではない全ての日本人)に浸透していく橋頭堡となったのは間違いありません。

足利将軍家によるさらなる賜与。織田信長も…

足利将軍家によるキリの紋章の下賜は末代に至っても断続的に行われました。その格の高さはもちろん、足利尊氏が後醍醐天皇に賜ったいきさつも相まって、キリの紋章は室町大名たちの羨望の的だったといいます。

具体的には、12代義晴は大友氏・朽木氏などに、13代義輝は三好氏・松永氏・武田氏・上杉氏などに、14代義昭は織田信長・細川藤孝などに、それぞれキリの紋章を与えています。なお織田信長は、14代義昭の他に13代義輝からも賜ったとする説もあります。(義輝の件は父信秀ともいわれますが)

戦国時代を収束に向かわせる足場を築いた天下人・織田信長も五三桐を使用した。

これらの大名家からさらにその家臣にも使用許可が出されたケースも少なくはありません。このようにキリの紋章は、時代を経るごとに武家社会へ浸透していきます。

豊臣秀吉の "大盤振る舞い"

室町幕府が滅亡し、さらに織田信長が本能寺で討たれると、次に豊臣秀吉の治世が訪れます。信長の死後、秀吉が後継に名乗りを上げた有力者たちとの権力闘争を勝ち抜く最中、関白就任・豊臣への改姓と太政大臣への任官を経る中で、後陽成天皇より「キリの紋章」と「菊花紋章」の下賜が行われたといいます。

キリの紋章を正式に使用する権利を得た秀吉は、まず自らの衣服や調度にとどまらず、城建物の外装にまでキリの紋章を用い始めます。

また、自らの所有物に限らず、秀吉によって造営・再建された寺社の装飾、また"天正長大判"や"大仏大判"といった秀吉期の貨幣など、人目に触れるところ、いわば公的なものにも惜しみなくキリの紋章を使用しました。

秀吉政権下の貨幣である「天正長大判」にも五三桐が刻印されている。

※画像出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/)

さらには自らの配下武将に、「豊臣」や「羽柴」の氏姓と共に、「五七」や「五三」を始めとしたさまざまなキリの紋章の使用許可を与え始めます。

具体的には、前田・伊達・山内などの各家に五七桐を、森・仙石・脇坂などの各家には五三桐を、それぞれ与えることで配下の人心を収濫しようとするなど、政治的にも大いに利用しました。

広がりすぎたキリの紋章

しかしその後、秀吉からキリの紋章を賜った諸侯により、その配下の臣に対する「さらなる賜与」が頻発したといいます。果ては借用・盗用など勝手に使用する者まで現れる始末で、天正19年ついに秀吉はキリの紋章の "禁止令" を出し、無断使用を禁ずることによってこれに対処しました。

また、これら公私にわたるキリの紋章の "大盤振る舞い" がたたってか、既存のキリの紋章の価値に著しい低下が認められました。そこで秀吉は、自身のみの使用を目的として『太閤桐』というオリジナルのキリの紋章を新たに作成したといいます。

豊臣秀吉オリジナルのキリの紋章と伝わる「太閤桐」の画像。

こうした経緯を経てキリの紋章は、有力武士などの特権階級にとどまらず、中流階級や一般市民にとっても身近な紋章へと変貌を遂げていきます。

徳川家康にとってのキリの紋章とは?

徳川家康が征夷大将軍となって国家権力を掌握した際、朝廷は足利氏・豊臣氏の先例に倣って「キク」と「キリ」の紋章の贈与を打診しましたが、家康は『伝家の葵の御紋』の存在を理由に、はっきりとこれを辞退したといいます。(といって、家康個人ならびに江戸幕府がこれらの紋章の使用を全面的に見合わせたというわけではない。)

徳川政権下におけるキリの紋章の扱いは?

徳川家としては、"豊臣政権" のイメージが染み付いてしまった感のあるキリの紋章を "将軍家の象徴" として使用する事には、さすがに抵抗があったのかもしれません。いずれにせよ、キリの紋章を遠慮した上で葵紋を前面に押し出したことは、その格式を高める結果に一役を買ったといえます。

徳川将軍家を象徴する紋章である「葵の御紋」は、たとえ徳川一門であっても、一部の家系しか使用の出来ない厳しい制限を設けます。将軍家の権威の上昇の一翼を担う施策というわけです。

江戸幕府並びに将軍家の象徴である葵の御紋の画像。

対照的に、贈与を断った朝廷由来の権威の象徴である「菊」と「キリ」の紋章は、特に制限はかけられませんでした。朝廷の権威を大いに利用した豊臣家とは対照的に、朝廷と距離を置くばかりか、専用の法令まで定めて自らの管理下に置こうとした徳川将軍家らしい判断といえるかもしれません。

こうなっては、高い格式と権威を誇るキリ(菊)の紋章を、使用しない手はないと考える者も決して少なくはなかった事でしょう。江戸時代後半に幕府が編修した「寛政重修諸家譜=かんせいちょうしゅうしょかふ」によると、大名・旗本合わせて実に473もの家系による使用が確認できます。

江戸時代の家紋文化の発展と庶民層へ拡大する五三桐

江戸時代までの家紋は、支配階級や名門家系に特有の文化と言って良い存在でしたが、この時代に設けられた厳格な身分制度により、士族階級以外に名字の公称が認められなかったため、家の識別に利用され始めた影響で、庶民の間に急速に普及していきます。

一般家庭の定紋としてはもちろん、粋な男女の"洒落紋"である比翼紋や、力士や役者に代表される屋号紋など、江戸時代の身分制度の中で、比較的身分の低かった遊女や役者などでも自由に家紋を決めて使用していました。

江戸時代に流行したとされる比翼紋の例

家紋の定番種として普及・定着する五三桐

そのような背景の中、キリの紋章は庶民層にも大きな広がりを見せます。太閤秀吉やその配下の中でも有力大名家が使用するなど、敷居の高いイメージの五七桐よりは、格式がありながらも、貨幣にも用いられるなど、より身近な存在であった五三桐は、特に庶民の人気が高かったようです。

自家の紋章としてはもちろん、商家の屋号紋や工芸品の模様など、あらゆるところに気軽に用いられる事によって、五三桐紋は一般庶民にとって一層身近なものとなりました。

この時代には、五三桐の家紋を使用する家の多さから、紋付きの服の貸し借りが出来るほどメジャーな存在となっていったようです。

紋付羽織袴の衣装。胸には定番の「五三桐」の紋がついている。

このようにして、五三桐は、最も一般人に馴染みの深い家紋の一つとして現代に伝わったのです。

近代から現代における五三桐

江戸時代の末期には欧米列強の軍事・経済的圧力により、大政(国政)を担うべき幕府の施策は迷走し、その権威は大きく失墜します。そこで開明派の諸勢力は連合して天皇を担ぎ上げ、新政府を樹立しました。新政府主導の "御一新" (明治維新)により、ついに日本は近代化の幕を開きます。

近年起こった最も大きな国家体制の転換の中での五三桐

しかし、新たに発足した明治政府は、立場も地域もバラバラの "寄り合い所帯" である上に、戊辰戦争の真っ只中という非常に不安定な状態で始動することを余儀なくされました。

こうした懸念が早くも現実化…という表現は大げさかもしれませんが、公家と武家・出身地域などの別によって、各々の立場なりの "正礼装" は形・色・柄のすべてにおいて不揃いであり、まともな調整をとる暇もないまま大規模な国事が催されると、案の定ともいうべきか、そのあまりの統一感のなさに新政府の面目は大いに損なわれたといいます。

これは日本政府、しいては民族そのものの文化的な "格" が問われるという意味では、目を瞑るべき些末な問題とはいえませんでした。そこで政府は、諸外国に開けた新たな日本国にふさわしい格調高い "正礼装" を含む、日本国公式の統一された服制を整えるべく西洋式の装いに範を求めました。

現在では「正礼装」となっている「燕尾服」や「モーニング」を「準礼装」「略礼装」として取り入れ、その上の「正礼装」に当時の西洋でも最上級の装いであった宮廷制服を模した『大礼服』が定められるのですが、この最上級の礼装にあしらうべく日本政府を象徴する柄として選ばれたのがキリの紋章だったのです。

明治から戦前まで存在した官吏の等級・奏任官用の大礼服。袖や後襟、背中に「五三桐」があしらわれる。

幕藩体制からの大転換を図った、天皇を君主とする新体制の発足を印象づける意味でも、これまで "国政執行" の象徴として十分な "実績" を挙げてきたキリの紋章を明治新政府の紋章とするのは、さまざまな状況を鑑みてもごく自然な判断だったといえるでしょう。

現代においても往時の "権威の名残り" を感じる五三桐

これ以外にもキリの紋章は、あくまで慣例的とはいえ、実質的に明治以降の日本国政府の象徴としてあらゆる場面で用いられ、その役割を果すことになります。

例えば、明治初期に制定された勲章制度などは、そのうちの『旭日章』の各等級のデザインの一部、または全てにキリの紋章が用いられました。その後、統廃合された現行制度でも「旭日章」のほか、新たな分類として「桐花章」が定められ、キリのデザインが引き続いて用いられています。

日本における勲章制度に定められた勲章の一つ、旭日章のデザインにも「五三桐」が用いられる。

また今日では、法制全般を司り、発足当初は強力な検察権力を始め、警察権や裁判権まで保有した強大な官僚組織(内務省ほどではないが)であった、現在でいう「法務省」は、その象徴として五三の桐を使用する唯一の省庁として知られています。

そのため、法務省の管轄下に置かれる司法書士や検察事務官のバッジにも同じく五三桐が用いられています。

さらに、かつては宮内省に設置され、皇室及び皇族、並びに皇居・各御所の護衛や警護を司り、現在では警察庁の管轄である「皇宮警察本部」の紋章も、明治初期からの慣例により、現在も五三桐となっています。

そして五三桐は、筑波大学の校章にも使用されている事が知られていますが、これは日本初の "教員養成機関" として発足した、前身の「東京高等師範学校」へ明治天皇より下賜が行われたことに由来するそうです。

このように、現代においても公的機関や由緒ある組織のマークや紋章にキリの紋章が引き続いて用いられているケースは多数ありますが、五三桐だけをとってみてもこれだけの例があるのです。

五三桐は、高い格式と一般性を併せ持つ稀有な存在

その一方で、江戸時代に一般庶民の間に広く普及した五三桐は、明治政府により厳しく使用が制限された菊の御紋とは違い、江戸時代に引き続いて自由に使用できた事から、現代においても特定の苗字や家系的な繋がり、家柄などに関わりなく広く個人に使用されています。

こまで見てきたように、家紋・五三桐は、最上クラスともいえる由緒を備えていながらその希少性は皆無であり、家紋そのものの代名詞ともされる程の一般性も同時に持ち合わせるという、なんとも不思議な家紋であるといえるのです。

以上が【五三の桐】の解説でした。その他「桐紋」の一覧ページは↓こちらから。

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【五三桐】紋のフリー画像素材について

【家紋素材の発光大王堂】は、家紋のepsフリー素材サイトです。以下のリンクからデータをダウンロードして頂けます。「家紋のフリー画像を探しているけど、EPS・PDFの意味がよくわからない」という方は、ページトップの家紋画像(.png形式・背景透過・100万画素)をダウンロードしてご利用いただいても構いません。

※「右クリック」→「対象をファイルに保存」を選んで下さい。

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