庵木瓜|伊藤 曽我 工藤家の家紋?意味 由来 武将等の解説。家系のルーツを探る手がかりに

庵木瓜(いおりもっこう)

家紋・庵木瓜の素材。高精細フリー画像

この家紋は、そのデザインがウリ(瓜)科の果実の断面に似ていることもあって「キュウリやマクワウリをモチーフとした紋章」とする説も根強いようですが、実際は、古代中国の伝統文様が元となっているものです。

現在、(特に家紋の分野においては)「木瓜」の名で通るこの紋種ですが、元は「窠=か」文様と呼ばれ、かつての彼の国においては、官服(宮廷などで用いられる官吏の制服のこと)の文様に用いられるのが一般的だったとされます。

「窠」とは本来、種々の鳥類の棲家のうち、地上や地中に営巣されたもの全般を指す語であり、当時の人々がこの文様をして「卵を包む水鳥の巣(窠)」と見なしたことがその名の由来と伝わります。

日本の宮廷文様を経て、家紋・木瓜の誕生へ

日本への伝来は奈良時代ごろとされますが、その意匠が「棲家と卵」を示す(とされた)ことから、日本においても子孫繁栄をあらわす吉祥文様と捉えられ、宮廷貴族の衣装や調度に広く用いられます。

とくに「御簾=みす(スダレの一種。当時の建築様式においては、パーテーション的な意味合いが強かった。)」の「帽額=もこう(御簾の上縁に被せるように張った染織物のこと。)」の文様に多用されたといい、そしてこのことが、現在まで続く「窠文といえば帽額の文様」という根強いイメージの形成の主要因となっているといえるでしょう。

木瓜の名はこうして生まれた

この「帽額(もこう)の文様」というイメージが定着したことから、窠文を「もっこう」と呼ぶ習慣が生まれ、さらにその意匠がウリ科の果実の断面に似ることから(瓜の字を含んだ)「木瓜」の字があてられるようになったというのが、木瓜という名の成立の経緯として有力であるようです。

さらに「清華家」に列する日本屈指の名門貴族である「徳大寺」家が、自らの牛車の所有者を示す識別子としてこの窠文様を使用したこともよく知られたエピソードです。

徳大寺家累代の家紋が木瓜紋であるのはこのことに端を発するものであり、同時にこれが木瓜の家紋そのものの誕生の端緒でもあるとされています。

庵木瓜と工藤氏

そうした木瓜紋種の一種である『庵木瓜』は、『工藤』氏によってその使用が開始されたと伝わります。

工藤氏と庵木瓜との繋がりの詳細

工藤氏とは、平安時代中期の軍事貴族『藤原為憲=ふじわらのためのり』を祖とする史上最古級の武家の一族です。

藤原為憲は、藤原秀郷や平貞盛らとともに一軍を率いて天慶の乱(平将門の乱)に参戦し、これを平定した功により『木工助=もくのすけ(※木工寮の次官)』の官職を賜った人物として知られます。

※木工寮=もくりょう…宮廷とその関連施設の建築・土木および、その修繕の計画・監督・実務を一手に担ったとされる宮内省管轄の機関。

工藤という名の由来は、この為憲がその官職である木工助の『工』の字と氏族名である藤原の『藤』の字を組み合わせ、「工藤大夫=くどうたいふ」と称したことに端を発するものと伝わります。

なお、工藤氏が庵木瓜紋を使用するようになった由来については、「『庵』が木工助の主要な職掌である建築をイメージさせることと、木工助の「木工」が『木瓜(もっこう)』紋の読みと通じることから」とする説が有力となっているようです。

戦国史に指折りのあの武将も工藤の一族?

工藤一族で著名な人物といえば、源頼朝に重用され、また「日本三大仇討ち」の一つとして名高い「曾我兄弟の仇討ち」の主要人物である「工藤祐経(くどうすけつね)」が、まず挙げられるでしょうか。

ちなみに、仇討ちを果たした曽我兄弟も工藤祐経とは近しい同族であり、彼らの家紋もまた庵木瓜であったと伝わります。

さらに、甲斐の国に分派し、同地で地歩を築いた一族では、武田信玄の副将格であり、武田四天王の一人にも数えられる「工藤祐長(大和守昌秀)」もよく知られる存在です。彼は後に、武田譜代の(断絶していた)名跡・内藤を継承し、その名乗りを「内藤(修理亮)昌豊」に改めています(←ただし家紋は花菱系)。

工藤氏は多くの名門武家の源流的な存在

工藤氏は最古級の武家の一つであることから、長い時を経る中で多くの分家が日本各地へ派生したことでも知られます。その中でもとくに有名なのは、伊豆国田方郡の伊東荘に根拠地を築いた「伊東」氏です。

当初、庵木瓜は工藤一族の証ともいえる存在だった?

伊東の宗家ともいえる伊豆の伊東氏は、一族内で立場を違え、それぞれが源頼朝と因縁浅からぬ関係を築いたことで、この封建制度確立の黎明期に小さくない存在感を発揮しました。

また、鎌倉幕府から日向国にいくつかの地頭職を賜ったことから発足した「日向伊東」氏は、南北朝期から戦国時代にかけて発展し、一時は日向国の大半を所領に収めるほどの繁栄を手にします。

その後、江戸期においての日向伊東氏は、飫肥藩主家として廃藩置県に至るまで存続し、長い封建時代を全うしました。この日向伊東氏とは別系統に、尾張伊東氏も存在しますが、こちらも幕藩体制下で備中国・岡田藩の藩主家としての立場を守り抜いたと伝わります。

他、工藤氏から枝分かれした諸氏のうち、曽我・河津・安積の各氏に、上記の伊東氏、そこから枝分かれ伊藤氏は、いずれも庵木瓜紋を使用した家系といいます。

時や代を経て庵木瓜から距離を置くケースも

工藤氏の祖となった藤原為憲の家系は、(藤原氏族であるとはいえ、確かに)傍流系統と言えるものであり、故に貴族としての家格は低く、とくに藤原惣領家である摂関家とは比べるべくもない存在ではあります。

しかし、上記各氏の他、狩野・吉川・鮫島・二階堂・相良といった後世に名を残す多くの諸氏の共通の祖であることを考えれば、工藤氏は日本史上に一定の存在感を示した「武家の名門」と評して差し障りない立場であるといえそうです。

家紋・庵木瓜は工藤氏の末裔の証?

ここまでのご紹介を踏まえれば、家紋が庵木瓜でかつ、「工藤」「伊東」などとといった、上記にある庵木瓜使用の各氏と同一の苗字であれば、工藤氏の流れをくむ由緒ある家系である可能性は否定できません。

「下がり藤」や「五三の桐」「丸に木瓜」などのド定番家紋に比べれば、ずいぶんと確率的にあり得る話に思えます。

しかし江戸時代、庶民の間で起こった空前の「家紋ブーム」により、家紋が公家や武家をはじめとした上級階層の「家系や出自を示すための証」とは、必ずしも言えなくなってしまった現状を考えれば、苗字と「家紋が庵木瓜である」という情報のみでは、やはり確実とはいえないでしょう。

以上が庵木瓜紋の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

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