家紋 梅|意味や由来は?苗字 先祖 武将 有名人は?家系のルーツは辿れる?|家紋の発光大王堂

梅の花

家紋「梅の花」の高精細フリー画像。
家紋・梅の花(梅花=ばいか)は、菅原道真を祭神に祀る天満宮系神社の神紋や、前田利家・筒井順慶といった天神(道真)信仰にまつわる有名戦国武将の家紋で知られるウメの家紋の一種ですが、今回はその意味や由来をはじめ、武将などの著名な使用者などについてご紹介しています。

家紋・梅の花の概要

この家紋は、中国の江南地方を原産とするバラ科サクラ属の植物である「ウメ」の花や葉を象った「ウメの家紋」の一種です。

ウメの家紋は、100を超える多様な種類を持ちますが、そのデザイン的な傾向は「写実的・絵画的」に象られた『梅花』紋と、単純な円の図形を複数用いて梅花の花びらを「幾何学文文様的」に表現した『梅鉢』紋のニ種に大別されます。

梅花紋と梅鉢紋のビジュアルそれぞれの具体例

そしてこの「梅の花」は、数ある「梅花」紋の中でも代表格にあたる家紋となります。

ウメは、「天神さま」や「学問の神」として現代でも広く親しまれ、信仰される『菅原道真』公がこよなく愛した植物として知られ、公を主祭神として祀る全国各地の「天満宮・神社」の多くがこの「梅の花」紋を「神紋」や「社紋」に定めています。

梅の花の紋章は天満宮の神紋

ウメの紋章を家紋に据える家は全国的に大きな広がりを持っていますが、その由来は「天満宮信仰」に関係した(する)家系か、(自称を含め)祖先を遡れば菅原氏に行きつく家系かのいずれかであることがほとんどだといいます。

今回は、この紋のモチーフとなった「ウメ」がかつての人々にとってどのような存在で、いかにして家紋となり、誰にどのように使用され、広がりを見せていったのか、また武将などの主な使用例や使用の多い苗字や地域などについても順を追ってご紹介したいと思います。

ウメと人々との関わりと『梅の花』紋の成立まで

ウメは、香り高く咲く白い花と、風雅に富んだ樹姿から観賞用途の植物として広く知られ、また「長寿」「旺盛な生命力」「厳寒時期(1月下旬~)の開花」といった力強い特徴から、慶事・吉祥の定番シンボルである「松竹梅」の一端をなすなど、日本古来の慣習とも関連が深い植物です。

ウメはその優れたビジュアルは鑑賞用途にも十分に耐え得る

よく知られる「梅干し」や「梅酒」のほか、菓子や清涼飲料水にも食品利用されるなど現代日本人にも大変なじみ深いことから、代表的な『和』の植物の一つというイメージを持たれがちですが、実はこのウメ、奈良時代ごろ(またはそれ以前)に大陸から渡来した『外来種』の植物だったりします。

今に伝わるウメ文化は大陸との共通部分も多い

古代中国におけるウメは、「早春の雪の中で、他に先んじて花を咲かせる強靱さ」を称えられ、古くから東洋画の定番画題の一つであったといい、宋代以降に至って発生したという文化的枠組みである『※四君子』や『※歳寒三友』の一翼を担いました。

※四君子…しくんし。「菊・竹・蘭・梅」の総称。数ある植物の中でも気品と高潔さを備えたさまが、まるで「君子」の如くあることから呼称された。

※歳寒三友…さいかんのさんゆう。「松・竹・梅」の総称。「マツ・タケは寒中にあって色褪せず、ウメは寒中に花開く」特徴から「高潔・節操・清純」の意味を見出され、東洋画の題材として重用された。いわゆる「松竹梅」であるが「めでたい」に代表される吉祥的な意味合いの強い日本とは意味合いが大きく異なる。

ウメは松竹梅の一翼を担うことで広く知られる

また、ウメは「好文木(こうぶんぼく)」という古名を持ちますが、これは「晋の武帝が学問に取り組むと梅花が咲き、怠ると梅花が散り萎れた」という古代中国の故事に由来するといいます。

これらのことから、ウメは中国においてもその文化に根付き、一定の存在感があったことが分かります。

外来種であるウメが急速に日本文化へ溶け込んだ背景

ウメが日本に渡来した当時、「国風文化」に始まる文化的独自性の芽生えはまだ遠く、「唐風文化」が全盛といえる状況でした。

海に隔絶された未開の地といえた日本にとって、最先端の大陸文化は(それらに優先的に触れることのできた)皇族・貴族といった支配階級の羨望の的であり、それらの影響下にあることが一種のステータス。身に付けるものから、遊興から、政のしきたりまで全てが唐風に染まっていました。

例えるなら「明治維新直後の西洋文化に対する近代日本人の心境」が感覚的には近いでしょうか。ウメはこうした状況下に渡来したものですから、大陸文化への憧れの強いエスタブリッシュやインテリが飛びつくように受け入れたのも頷けます。

宮廷文化とウメ

現代においては、「花見の習慣や詩歌の題材の代表的な植物といえば『サクラ』」という通念が支配的といえますが、こうした感覚がそっくり「ウメ」と置き換わったのが当時の状況と考えてよいでしょう。

花見といえば「ウメ」、調度品の文様も「ウメ」、和歌に詠まれる題材もこれまた「ウメ」といった具合であり、実際、奈良時代の編纂である万葉集に詠まれた和歌のうち、サクラが題材の歌は40首程度であるのに対し、ウメは120首近くにのぼるなどその存在感は際立っているといえます。

また、御所の紫宸殿・南庭の正面東側にサクラ、西側にタチバナが植わる習わし(右近の橘・左近の桜)は、平安京造営当時から今に続くものですが、実は当初、東側に植わっていたのはサクラではなく、ウメだったといいます

当初の左近の植木がウメであった事実は、当時のウメの存在感を物語っているといえる

一年の気候の移り変わりを72分割して示した伝統的な暦の一種である「七十二候」にも『梅子黄(梅の実黄ばむ)』(6/16~6/20頃)として登場しているように、ウメは日常の営みに溶け込んだ存在でもあったことが分かります。

皇室・貴族社会との深い関わりがウメの文様を生んだ

以上のようにウメは日本固有の種ではない、いわば "新参者" であるにもかかわらず、皇族・貴族といった支配階級に対して、またたく間に存在感や影響力を発する立場を確立したわけですが、こうしたことを背景に奈良時代には早くも文様化(つまり「ビジュアルデザイン」化)へと至ったようです。

天平時代(美術史上の時代区分で710年~794年までを指す)の美術工芸品で、東大寺・正倉院に収められている「碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)」の縁部分に金色の『梅花文様』が用いられていることが具体例に挙げられます。

また平安時代には、吉祥の意味合いも含んだ文様として愛好され、衣服・調度・工芸・美術の図柄に広く用いられるなど、朝廷の貴族文化を華やかに彩る一端を担ったといいます。

高野山の「赤不動」(「高野山・明王院」蔵の「不動明王」画像の通称。平安後期の作とされる。)の裳に『梅鉢文様』が意匠されているのが、この頃の著名な利用の代表例でしょうか。

高野山明王院蔵・赤不動のイメージ画像

『梅の花』紋はウメの文様から生まれた?

ウメの「家紋」「神紋」「寺紋」といった各種の紋章は、こうした『梅花』文様や『梅鉢』文様のビジュアルから派生したものであり、特に『天満宮』をはじめとした※天満・天神系統の神社の多くで神紋・社紋に用いられたことが、ウメ(梅鉢)の家紋の広がりの端緒と見られています。

山口県・防府天満宮のイメージ画像

※京都・北野天満宮は『星梅鉢紋』、福岡・太宰府天満宮は『梅花紋』、山口・防府天満宮は『梅鉢紋』、大阪・大阪天満宮は『剣梅鉢紋』、東京・湯島天神は『梅鉢紋』など。

ウメの紋章を掲げる天満宮(天神社)について

天満宮(天満神社)とは「天満大自在天神(てんまんだいじだいてんじん)」なる神格で『菅原道真』公を祀る神社の一派で、現代でも「学問の神」として多くの信仰を集めていることで知られます。

祭神である菅原道真について

主祭神である菅原道真は、生粋の学者家系に生まれ『文章博士』(最高学府の筆頭教授的存在)の任に就くなど、当代における詩文・学問分野の中心的な存在であり、人柄も清廉で知られた平安時代前期ごろの人物です。

また「非藤原」氏である彼は、藤原氏嫡流のさらなる影響力拡大を望まなかった「宇多天皇」の重用を受けて政権の中枢を担い、さらに次代の醍醐朝においては「従二位・右大臣」という、その出身家格に対して "著しく不相応" ともいうべき大出世を果たしたことでも知られます。

宇多天皇からの寵愛は、道真の政治キャリアを語る上で欠かせない要素

(著名な学者・政治家ではあるが)一個人が神として祀られた経緯とは?

そんな道真がなぜ神として天満宮(天満神社)に祀られているのでしょうか。それには彼の「非業の最期」と「その後に相次いだ怪奇な出来事の数々」が深く関係しているようです。

道真の「無念の最期」についてのまとめ

901年(昌泰4年)1月、道真は「醍醐天皇を廃し、代わりに(道真の娘婿である)斉世親王を皇位に就ける動きを主導した」として、突如、右大臣の任を解かれ九州の大宰府へと左遷されてしまいます。(昌泰の変)

宇多法皇と醍醐天皇には政治的主導権争いがあったと見られ、道真はその巻き添えを受けたとする説もある

ただしこれは、時の左大臣「藤原時平」とその一派(大納言「源光」、蔵人頭「藤原菅根」、五位蔵人「藤原清貫」など)による道真を陥れるための※讒言であったといわれています。

若くして太政官のトップに君臨した藤原時平

※讒言…ざんげん。虚偽の事実をもって人を陥れること。

左遷先では太宰府の長官補佐的な肩書ではありましたが(太宰員外帥)、実際には「従事するべき業務」も「支払われる俸給」もない、事実上の『流罪』といえる状況であり、ゆえに生活は困窮を極めたといいます。そしてこの冤罪が晴らされることのないまま、道真は失意のうちに同地で没したといいます。

タタリ神信仰の時流に乗って神格化

道真が無念の最期を遂げて以降、「落雷」「疫病」「台風」「洪水」といった重大災害が頻発したほか、道真の失脚工作に関わった時平とその一派には、数々の受難が降りかかります。

具体的には、「藤原菅根」が落雷で死亡したことを皮切りに、「左大臣・時平」が39歳の若さで病死、「源光」が鷹狩り中に変死、「醍醐天皇の皇子で時平の甥」の皇太子・保明親王が病死といった具合です。

「偶然」の一言で片付けるにはちょっと出来すぎではないか?という奇異な展開に、当時の社会では(当時流行していた「※御霊信仰」なる宗教観も手伝って)「一連の不幸は道真の怨霊による祟り」とする通念が形成されていったといいます。

当時は荒ぶる神として恐れられた道真

※御霊信仰…ごりょうしんこう。疫病や災害の発生は、恨みや無念を抱いたまま非業の死を遂げた者の『怨霊』によるものと畏怖し、逆にこれを慰め鎮める(『御霊』化する)ことで、天災をおさめ、社会の平穏の実現を目指した信仰のこと。八坂神社の祇園祭(祇園御霊会)はこの信仰に基づくという。

自身や道真を陥れた当事者たちを次々と襲う不幸を前に、心胆寒からしめた醍醐天皇は、勅命を以て道真薨去の地である太宰府に社殿を造営(『太宰府天満宮』の起こり)したり、道真の名誉の回復(左遷を命じた勅書を破棄し、「右大臣」の官位に復した上で「正二位」の位階を追贈)に努めるなどの手を打ちます。

道真とゆかりの強い太宰府天満宮

しかし、これによって不幸の連鎖が断ち切られることはなく、先の「保明親王の皇子(醍醐帝の孫)および時平の外孫」で次の皇太子に立てられた慶頼王までもが病死という憂き目にあってしまいます。

極めつけは、朝議のただ中にあった「清涼殿」に落雷が直撃したことにより、「藤原清貫」を含め、巻き込まれた公卿・官人4名が死亡するという(政権中枢の面々にとっては特に)衝撃的な事件が発生、この惨状を現場で目の当たりにした醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月ののちにそのまま崩御することとなってしまいます。

道真(天満天神)は雷神と同一視され「荒ぶる神」として恐れられた

道真を陥れた者たちを次々と襲う不幸や、頻発する疫病などの重大災害は「道真の怨霊によるもの」と人々が恐れ慄いていたところに起こった「清涼殿落雷事件」は、「道真の怨念が神となり、天に満ちて(天満)雷槌となった」とし、道真と『雷神』を同一視する考えを生み出す結果となりました。

こうした背景から道真は、「平安京の西北の鎮め」としてあらかじめ北野神社(北野寺の寺内社)に祀られていた雷神である『火雷神(ほのいかづちのかみ)』と結びついて『天満天神』として信仰されるに至ったというわけです。

のちにはこの北野神社にも天満天神となった道真を祀る大規模な社殿が造営されますが、これを以て現代にも著名な『北野天満宮』の成立の縁起とするようです。菅原道真が雷神・天神と畏怖され、天満宮に神として祀られるようになった経緯は以上のとおりとなります。

中央における天神信仰の中心地であった北野天満宮

全国的な広がりを見せる天神(道真)信仰

『二十二社』(朝廷からの格別な崇敬を賜る枠組み)の一社に加えられるなど、朝廷が(御霊信仰のもと)北野天満宮との結びつきを強めた(他、京に政府を構えた足利将軍家からも同様の崇敬を受けた)ことから「天神信仰」は、都を中心に長期的・継続的な国家的バックアップを得られることとなります。

鎌倉時代になる頃には、道真を怨霊として恐れる風潮は薄まり、代わりに(元は広く名の通った学識者ということもあって)「学問の神」としての解釈が生まれ、これが徐々に広がっていくことになります。

また、慈悲・正直・冤罪(を晴らす)の神のほか、皇族・上級貴族・幕府将軍などの国家指導者にはとくに王城鎮護の神(の一柱)として、守護・戦国大名や地域の豪族衆といった地方領主層にも、怨敵調伏・戦勝祈願の神として信仰されたといいます。

『梅の花』紋の普及は、天神(道真)信仰の広がりと共にあった

このように、さまざまな社会階層から幅広い信仰を得たことや、上記のような国家規模の後ろ盾の他、大名や豪族衆(地頭や国人)など大小の地方領主層からも信仰を集め、各々の地域に「勧請」(神仏の分霊を請じ迎えること)が相次いだことも手伝って、天満宮とその分社は、全国に12,000を超える広がりを見せることとなるのです。

天神信仰にまつわる神社やその関係者(本宮・各分社の社家・神職・氏子など)に「梅の花」紋を用いるケースが多いというのはこれまでに触れたとおりですが、こうした天神信仰の発展・拡大が現代における「梅の花」紋の広がりの大きな要因であるのは間違いないといえそうです。

天満宮・天神社のウメの紋章は「道真の梅好き」が端緒?

それでは、天満宮とその分社が神紋・社紋に「梅の花」紋を用いるケースが多いのはなぜなのでしょうか。それは、主祭神である道真がウメをこよなく愛した人物であったことがその理由であると考えられているようです。

ウメと菅原道真についての詳細

詩歌の才に優れたことで知られる道真が、5歳にして詠んだ歌は『美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある』であり、また11歳時に作成の漢詩にも『梅花似照星(花咲くウメは、照らされる星に似ている)』なる部分が登場しています。(「あこ」とは道真の幼名)

道真は幼少期より詩歌の才に優れたと伝わる

こうしたエピソードは、道真のウメへの愛着が幼少のころからの筋金入りのものであり、大陸文化へのあこがれからくる「ミーハー気質」によるものとの違いを如実に示しているといえそうです。

また道真は、構えた居にウメを植え慈しみますが、左遷により自邸を離れる際、『東風吹かば におひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな』と、邸内のウメに対する別れの歌を残したといいます。

そして、このウメが道真を慕って一夜のうちに太宰府まで飛んでいったという「飛び梅伝説」はよく知られるところです。

こうしたエピソードからも分かるように、道真のウメ好きは当時から公然の事実であったことから、菅原道真を象徴する紋章に相応しいと考えられて不思議はないのではないでしょうか。

「梅の花」紋の広範な普及には「菅原氏後裔による使用」という要素も欠かせない?

道真の生きた時代には、家紋の存在自体が影も形もない状況でしたから、道真自身がウメの家紋を用いることはありませんでしたが、後世、道真の子孫である菅原氏族に(史上に名の通った道真にゆかりの家柄であることを示す意味もあってか)ウメの紋章を家紋とした事例が多くみられるようです。

このような、菅原氏の後裔氏族(自称含む)による使用も(「天神信仰の発展・拡大」以外による)ウメの家紋の全国的な広がりの要因といえるかも知れません。

ウメの家紋の著名な使用例について

ウメの家紋の代表的な使用例は、菅原氏の嫡流である公家の『高辻氏』と、その分家筋にあたる『唐橋氏』『清岡氏』『東坊城氏』がまず挙げられるでしょうか。さらにこの高辻氏の氏族で、伊予・松山藩主家の『久松・松平氏』は武家系の菅原氏族による使用の代表格といえそうです。

その他、武家による使用例は、大和の戦国大名・筒井順慶などで知られる『筒井氏』とその配下勢力である『井戸氏』『中坊氏』、織田家のち豊臣家臣である堀秀政の『堀氏』。豊臣政権の重鎮・前田利家の『前田氏』などが代表的でしょうか。

武家のウメの紋章使用の具体例の代表格といえばこの前田利家

さらに織田家臣・金森長近の『金森氏』、肥後・人吉藩主家の『相良氏』、加賀・石川郡の在地領主である『松任氏』などがこれに加わります。

ウメの家紋は梅鉢系が主流?

ただ、これらの使用例はすべて「梅鉢」系の紋章であり、「梅花」系の紋章は、神紋では『太宰府天満宮(梅の花)』が、家紋としては花山源氏の『白川伯王家(向こう梅)』などが知られる程度のようです。

このことからも分かるように、ウメの家紋は「梅花」紋よりも「梅鉢」紋の方が使用割合が高いというのが実際のところのようです。

ウメの家紋の広範な普及には、こうした「著名な使用家」による影響も少なからず関係していることは間違いありませんが、こうした使用例の由緒もたいてい「菅原氏族」か「天神信仰」に関係しているケースがほとんどであるのは、このご紹介のとおりです。

「梅の花」紋使用の家系のルーツは?

通常、「使用の家紋が〇〇」という情報だけでは(家紋の文化・歴史の特性上)家系を遡ってのルーツの特定は難しいと言わざるをえません。

「梅の花」紋の場合は、これまでのご紹介の通り、遡れば「天神信仰にゆかりの家系」か、もしくは「菅原氏の後裔氏族」の(小さくない)可能性があるといえますが、逆にそれ以上の特定は難しいものがあるでしょう。

使用の苗字は?地域は?

「使用の多い苗字」に関しても上述の通り、ウメの家紋が「菅原氏とその後裔氏族(自称含む)」や「天神信仰にゆかりの家系」に幅広く用いられたものであるため、使用家系の苗字も多種にわたっており、取り立てて挙げるべき特定の苗字というものは存在しないようです。

ウメの家紋の使用が多い地域は、太宰府天満宮のある九州のうちでも、鹿児島県・熊本県・長崎県・佐賀県、その近隣の山口県・広島県、近畿圏では滋賀県・京都府、東日本では東北の宮城県・山形県などが挙げられるようです。

以上が【梅の花】紋の解説でした。『その他の梅紋』など、さらに詳細に知りたい方は↓こちらから。

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【梅の花】紋のフリー画像素材について

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