五七桐

五七桐

数ある家紋の中でも、本項で取り上げるこの五七桐紋は、こと現代に於いても、割と目にする機会の多い、有名な家紋ですね。

いちばん象徴的な使用例といえば、やはり日本国内閣総理大臣の紋章に採用されている事でしょう。総理会見時の演台にもそれを見る事ができます(演台の前面に取り付けられている、青地の楕円形プレートに描かれています)。

初代内閣総理大臣・伊藤博文の頃から、今も綿々と受け継がれているのですから、日本国の指導者の紋章としてすっかり定着していると見て良いでしょう。

しかしこの五七桐紋が、日本の指導者の紋章として用いられる様になったのは、何も議院内閣制が発足してからの事ではありません。そもそもは、皇室専用の紋章として公的に用いられたのが始まりでした。

天皇は、かつて日本国に於ける最高の権威・権力者でしたが、時代が下るにつれ、権力者としての性質は薄れ、圧倒的な権威の象徴として、時の指導者に祭り上げられるようになりました。これは日本特有の政治システムでしょうが、天皇の権威を利用して、自身の権力者としての正当性を担保する為です。

数ある公家の中でもエリートとされる公卿衆による集団合議政権の時代から、軍事力を背景とした武家政権の時代でも、その構図は変わりませんでした。

そうした権威・権力構造での長い歴史の中で、時の天皇が自ら為政者の地位に任命した権力者に対して、この五七桐紋の下賜を行った事例があり、この事によって皇室専用の紋章から、その時代の日本を実質統治する指導者の用いる紋章としての定着が始まったのではないかと思います。

そんな五七桐紋ですが、この紋章を用いた事で、もっとも知られた人物と言えば、豊臣秀吉公でしょう。

豊臣秀吉は、尾張国の戦国武将で、のちに大名、果ては天下人にまで上り詰めた事で有名な人物です。秀吉は、尾張国愛知郡中村郷中中村の生まれとされ、木下藤吉郎秀吉の名で戦国史に登場し、羽柴筑前守秀吉と名乗りを変え、関白宣下の折に豊臣氏を賜りました。通称は、サル、ハゲネズミ、藤吉、羽柴筑前、関白殿下、豊太閤など。

前向きで陽気、人当たりの良さの中にある芯の強さ、鋭い直感力や閃き、時には謀略も辞さないタフな交渉力、無尽蔵を思わせるバイタリティ、度胸の良さ、行動力、粘り強さ、野心、情熱、そして運。

生れついたバックボーンに特段のアドバンテージもない状態で、日本史上、究極の成り上がりを体現して見せた人物だけに、良い部分を挙げればキリがないですね。それらを存分に駆使して、いわゆる天下人に登りつめるのですが、その経緯はここでは触れません。

秀吉のイメージが強いこの五七桐ですが、彼がこの紋章を使用することが出来たのも、彼が天下人という指導者に到達できた為です。当時は現在と違い、桐紋は皇室の紋章ですから、勝手に用いることはかなわず、天皇から下賜が行われる必要がありました。

それが秀吉の場合は後陽成天皇により、四国平定の約一年のち、1586年の太政大臣の任官時(関白宣下、豊臣氏の下賜は既に済んでいる)に行われました。関白太政大臣となり、また強大な軍事力も背景ある事から、権力基盤の相当強い指導者である事も要因でしょうか、菊の御紋も同時に拝領しています。

豊臣秀吉が、五七桐紋を用いるようになった背景は以上の通りですが、皇室専用の紋章であった桐紋が現代に家紋として一般に広がりを見せているのは何故でしょうか。

それは、彼の桐紋の利用方法によるところも大きいと考えられます。出自の定かでないところからのし上がった秀吉には、譜代の臣などは存在せず、そのため血縁をかき集めて周囲を固めてはいましたが、それだけでは当然人数に限りがあります。

そのため、前田利家や伊達正宗、上杉景勝など、自身の配下大名や臣従した諸侯へ豊臣の氏や羽柴の姓などとセットで積極的に授けて懐柔を図ろうとしました。その上、自身の施策下での建造物や、大判小判などの通貨などにも桐紋を施させたため、そこかしこで人々の目に触れるようになった事も大きな要因と言えそうです。

時が下って江戸時代には、庶民の間にも家紋を持つ文化が定着しましたが、葵の御紋に厳しい使用制限を課した事以外は、どんな紋を使おうがまるでお咎めがない訳ですから、由緒正しい桐紋などは忽ちに人気の家紋として広がっていったのでした。

スポンサードリンク

※「右クリック」→「対象をファイルに保存」を選んで下さい。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサードリンク

  • カテゴリ0へ
  • カテゴリ1へ
  • カテゴリ2へ
  • カテゴリ3へ
  • カテゴリ4へ
  • カテゴリ5へ
  • カテゴリ6へ
  • カテゴリ7へ

スポンサードリンク