武田菱

家紋・丸に下り藤の素材。高精細フリー画像

甲斐源氏の名門・武田氏の家紋として有名な武田菱。しかし「あの武田信玄も使用した」事は知っていても、どのような経緯で誕生し、武田氏の定紋となったのかは案外知られていません。そこで今回は、皇室や朝廷との関連も囁かれる武田菱のルーツなどを詳細に解説します。

武田菱(たけだびし)とは「菱」紋種の一種で、甲斐源氏・宗家である日本史上指折りの名門「武田氏」が重代に渡って使用した事で非常に有名な家紋です。戦国期の武田氏は、最強軍団の呼び声も高く、現代でも高い人気と知名度を誇る戦国武将・武田信玄を輩出した事でも知られていますね。

武田信玄の肖像画

武田氏が使用した事が現代においても広く知れ渡り、そのイメーシが根強い武田菱ですが、とは言っても、その始まりが「武田氏が新たに創り出して使用を始めた紋章」というわけではありません。

それではこの武田菱とは、一体どこからやってきた紋章なのでしょうか?この記事では、その「本当の」発祥の由来を詳しくご紹介したいと思います。

武田菱の原型は、非常に高貴な古代の文様群に属していた。

最初に述べたように、武田菱とは菱紋種の一つに分類されますが、この菱紋種そのものが「有職文様=ゆうそくもんよう」の一種である「菱文様」が元となって成立したものと考えられます。

有職文様とは日本古来の宮廷文様を指す。

有職文様とはそのルーツを、古代オリエント(メソポタミア・エジプト両文明)の地で発祥し、大陸各地のエッセンスを加えながら発展した、人類の遺産ともいうべき「古代文様」群に求めることが出来ます。

日本へは古代中国を通して伝来した、これら古代文様群。当時は海に隔絶された未開の地といえた日本にとって、最先端の大陸文化は人々の羨望の的であり、それは皇族・貴族といったエスタブリッシュにとっても同様でした。

上流階級の支持を一身に受けたこれら文様は、彼らの公私両面に積極的に取り入れられ、華やかな貴族文化を語る上で欠かせない要素となっていきます。日本社会の成熟が進んだ平安中期以降、あらゆる外来の文化が国風化してゆく中で、この大陸由来の文様群も和の色合いを濃くしていく事になるのです。

こうして和風化した大陸文様こそが、有職文様というわけです。華やかな公家文化の名残であるこの有職文様は、和文様の基礎として現代へと伝えられています。

菱文様そのものは、極めて原始的な文様と言えるが…。

ただし菱の文様自体は、日本においても既に縄文土器には施されているように、世界中の古代文明に見られた単純な幾何学模様です。

しかし、その単純な幾何学模様の組み合わせのパターンや色使いは、日本で独自に発祥したものではなく、上述のような大陸文化の影響を受けて、さまざまな和テイストの菱文様へと変化していったという訳です。

有職文様としての菱文様。

菱文様は、シンプルでありながら角度や組み合わせにより、さまざまな表情を見せる事から、種類が豊富である事が特徴で、時や場所、目的に応じて、上流階級に重んじられてきたようです。

基本は横向きの平らな「横菱」で、横菱が単体で用いられたものを「菱持=ひしもち」、これを斜め十字に分割したものを「割菱=わりびし」または「四つ割菱」といい、これらが菱文様の基本となります。ちなみに、向きが縦になれば「縦菱」です。

菱持を分割したものが武田菱とも言える。

菱同士が離れて配置されているものは「遠菱=とおびし」、隣接して配置されている場合は「繁菱=しげびし」と呼ばれます。

遠菱・繁菱・入れ子菱・三重襷といった種類が豊富な菱紋種。

四弁の唐花紋を菱形にしたものが「花菱=はなびし」。大小の花菱で大きな菱を作り、一定間隔をおいたものが「幸菱=さいわいびし」です。他、さらに複雑な組み合わせや、変形した菱、鶴や蝶や唐草を絡めたものなど、挙げれば本当にキリがないほどの種類があります。

花菱・幸菱・松皮菱・対い鶴菱など菱紋種の種類は多岐にわたる。

菱文様は皇室御用達の「やんごとなき」存在でもあった。

こうした菱の有職文様のうち、いわゆる「菱持=ひしもち」や「割菱=わりびし」のような一部のパターンは、実は天皇を始めとした皇室にも重んじられて来ました。それは聖武天皇の遺品が納められている「東大寺正倉院」において、菱文様が施された宝物(=ほうもつ)を目にする事からも明らかです。

その代表的なものの一つに「正倉院七曜四菱文繧繝錦=しょうそういんしちようよつびしもんうんげんにしき」があります。これは、七曜文様と四菱文様を用い、同系の色味をグラデーション風の縞模様に仕上げた錦の織物です。

正倉院に収められた宝物の一つ七曜四菱文繧繝錦。武田菱と同じデザインの文様が見える。

玉座や皇居に今も残るその名残。

繧繝錦とは、表具の装飾、寝具や畳などの敷物のへりに、「有職故実=ゆうそくこじつ(過去の例に基づいた公家社会のしきたり・秩序の全般)」の定めにより、天皇・上皇・その妃と、それに準ずるもののみが用いた高貴な絹織物とされています。

また、天皇の即位の礼など、重要な儀式に使用されてきた「高御座=たかみくら」に収められた玉座は、当然天皇専用の調度品となります。この玉座に設置の敷物のへりは、これも「繧繝縁=うんげんべり」と言われる錦で彩られ、やはり菱文様が目に入ります。

玉座の敷物にも武田菱様な模様が目に入る。

あと、皇室関連の菱文様といえば、一般参賀が執り行われる「長和殿=ちょうわでん」のベランダ(ガラス張り)の背後に見える掛け飾りに、武田菱(のようなもの)が用いられている事で、「皇室には武田氏と何らかの関連が?」と一部で話題になる事があります。

菱文様は、シンプルながら長い伝統と高い格式を誇った存在。

しかし、これまでの解説からも分かる通り、皇室の側からしてみれば、単に伝統的な慣例に則って、有職文様の一つである皇室伝統の「四つ割菱」の文様を用いているだけに過ぎないというわけです。

武田菱にそっくりなこの四つ割菱の文様は、皇室の文様として決まった用いられ方が存在した。

単純な形状ゆえに意外な感じではありますが、菱文様はこうして見ると、有職文様として上級貴族に重用されたのみならず、皇室においても重んじられた権威ある文様の一つであった事がわかります。

皇族・貴族御用達の宮廷文様が武田氏の家紋となった経緯とは?

皇室までもが使用した貴族社会特有の高貴な文様が、武家である武田氏の代表家紋「武田菱」となったのは、どういった経緯だったのでしょうか。その由来となったのは、甲斐源氏惣領家である武田氏の重宝・「楯無の鎧=たてなしのよろい」にあるとされています。

伝家の重宝の文様を、家の紋章としたのは納得の筋書き。

武家の家紋を集録した最古の書物である「見聞諸家紋」には、

「1051年、後冷泉帝より、陸奥守ならびに鎮守府将軍として、奥州安倍氏討伐(前九年の役)の任を預かった「源頼義」が、摂津の住吉社へ戦勝祈願に詣でた。その際、ご神託により、住吉社に奉納されていた神功皇后ゆかりの「旗一旒鎧一領」を拝領した。」

といった内容の記述が残っています。

「源頼義」とは、清和源氏・河内流(河内源氏)の棟梁で、武田氏の家祖である「源義光」の父に当たる人物です。「鎧一領」とは、その源義光が父・頼義から相続し、その義光の末裔(の一系統)である武田氏が、末代に渡り伝領した「楯無の鎧」を指します。

河内源氏の2代棟梁である源頼義。武田氏の祖先に当たる。

武田家では、自家の成立にまつわる逸話や、名門氏族出身というルーツの証明ともなる、この「楯無の鎧」(と、もう一つの 「御旗=みはた」と呼ばれる日章旗)を神聖視する伝統が育まれました。

武田家とその一門・眷属において、この二つの重宝は別格の存在であり、方針を巡って議論が紛糾した際などは、一たび当代が「御旗・楯無も御照覧あれ」と宣すれば、異論を封じ、家中を一つにまとめる事ができたといいます。また、この宣言を出陣の誓いとしたとも伝わります。

この「楯無の鎧」には、「四つ割菱」文様と「花菱」文様の飾りや鋲(びょう=金属製の留め具)があしらわれており、そこから四つ割菱を「武田菱」として武田家の定紋に、「花菱」を副紋に据えたとされています。

これ程までに神格化され、武田氏を象徴する存在であった「楯無の鎧」ですから、そこにあしらわれた文様を、家系を表す紋章としたのは自然な流れといえるでしょう。

なぜ楯無に四つ割菱や花菱の文様が?

それでは一体なぜ、この楯無の鎧には、四つ割菱や花菱の文様があしらわれていたのでしょうか。

まず整理しておくと、楯無の鎧は実在したもので、現在では国宝に指定。そして、その指定に際する綿密な調査により、大幅な修理・補修はあるものの、平安時代に作られたものである事が分かっているそうです。

ただ「ご神託により住吉社から拝領した」に関しては、資料(見聞諸家紋)には残っているものの立証されているわけではありません。

そもそも「住吉社に奉納」のくだりにある「神功皇后」とは、(実在すれば)3世紀あたりの人物です。この時代の甲冑は、「短甲」や「挂甲」であり、楯無のような「大鎧」の存在する時代ではないのです。(平安時代に作られたものであるのは調査済みですし)

古墳時代に用いられた甲冑である「短甲」

したがって「住吉社から拝領」であれば、この時代近辺に(神功皇后ではなく)新たに奉納されていたものか、自前でしつらえたものしか考えられません。そもそも何らかの「権威」による「拝領」や「下賜」ではなく、単に頼義本人の甲冑として新調されたものである可能性も否定できません。

つまり「出どころは未確定だが、平安時代に作られたもの」であるのは間違いないという事です。

楯無に代表される「大鎧」とは、武家の棟梁級が身に付ける格式の高い甲冑を指す。

この楯無の鎧にかぎらず、平安時代に誕生した武家の棟梁級がその身に纏う甲冑である「大鎧」は、堅牢であることはもちろん、見た目も豪奢な作りのものが多かったといいます。

豪華な和の装飾を施し、見た目にも鮮やかであった「大鎧」

当時、華美の代名詞であった「有職文様」を飾りや文様として取り入れる事は、その「豪奢」の部分を演出するための手段の一つと言えました。これらの行為はともすれば、憧れの上流階級への同一化の心理から来るものだったのかもしれません。

この楯無の鎧の場合は、その豪華さを表現するために用いた有職文様が「四つ割菱」や「花菱」であったという事でしょう。

現代人の持つイメージとはかけ離れた平安武士の現実。

楯無の鎧が作られた平安時代は、いまだ武士の黎明期であり、当時彼らは「武士」としてより「下級貴族」としての意味合いの方が色濃く、皇族や上流貴族が多数抱える「家人=けにん」(上流階層の大家に出入りする従者・郎党の類)の家柄の一つに過ぎませんでした。

身分の低い貴族(武士に限らず)は、上流階級と主従関係を結び、自らの職掌(武士の場合は軍事力)をもって奉仕する代わりに、官職の叙任を取り計らってもらう事が常でした。

「言うなれば貴族の端くれ」である彼ら武士にとって、それら上流階級は頭の上がらない主人でかつ、「絶大な権力」と「華やかなイメージ」を併せ持った、憧れの存在だったのです。

そして、頼義が主従関係を結んでいたのは、あの「藤原道長」です。つまり摂関政治全盛という、平安貴族が最も権力・文化両面で華やかだった時代を、その核心的存在である藤原惣領家(摂関家)の家人として間近に体感したのですから、なおの事、その思いは強かったのではないでしょうか。

武田氏の祖先に当たる河内源氏本流は、史上最も栄えた貴族とも言える藤原道長の従者であった。

かつては貴族の存在がいかに大きかったかと言うと…。

当時、武士が決して手の届かない(家格による階層の固定化のため)存在である上流階級に対して、憧れや尊敬といった感情を抱くことは珍しい事ではなかったようです。武士の主人に対するこのような感情から(またはその権威を利用する目的から)、主人に関わりの深い(有職)文様を家紋に定めるといった例も存在します。

例えば、藤原惣領家(摂関家)の傍流家系である「武士系藤原氏」全般がこぞって藤原氏のイメージをまとった「」の有職文様を家紋に据えた事が知られています。

また、摂関・九条家の家人であった「宇多源氏・佐々木氏」(戦国大名・六角-京極両氏の祖)が主人に関わりの深い事で知られた「目結い」文様を家紋に据えたといいます。

貴族社会の優雅さが香る文様だった事も、その決め手となったか?

上流階級にとって有職文様とは、周囲に与えるイメージを視覚面で演出する重要な存在でした。ただ、これらを特別視したのは、上流階級だけではなく武士(下級貴族)も同様でした。いや彼らにとっては、それ以上に眩いばかりの存在だったかもしれません。

彼らにとって有職文様とは「権力」と「華やかさ」を併せ持つ上流階級を象徴する存在と言えるからです。

武田氏成立の時期を考えると、彼らもこういった考えを持っていたとして何ら不思議はありません。偉大な血統から自分たちへと伝えられた由緒正しい甲冑。そこに刻まれた華やかな上流階級を思わせる優雅な文様。

このような背景や経緯の一致が、武田氏の定紋「武田菱」の誕生へと繋がったのではないでしょうか。

武田氏は数ある武門の中でも指折りの名門。

武士の黎明期だった平安時代・摂関政治全盛の頃は、武士のトップに位置する平氏や源氏の棟梁であっても立場の低い存在であったのはこれまでの解説の通りです。

しかし、院政期に台頭した平清盛や史上初の武家政権を樹立した源頼朝らが登場してくる事で、武士の地位も徐々に向上していきます。その中での武田氏とは、どんな存在だったのでしょうか。

信玄だけの家系ではない。

ここまで登場してきた武田菱の使用で知られる「武田氏」とは、甲斐(山梨県)を本拠地とした甲斐源氏の惣領家を指します。有名な戦国武将である武田信玄で特に知られますが、武田氏はこの信玄の下克上によって成り上がった家というわけではありません。

北条早雲、毛利元就、斎藤道三といった「下克上の象徴」のような面々はもちろん、後の天下人となった織田信長、徳川家康あたりとも比較にならない程、氏素性のはっきりした、元々の家格の高い名門家系なのです。

とはいえ、この甲斐・武田氏はどういった点で名門とされるのでしょうか?次は武田菱を使用した武田氏がいかに名門であったかをご紹介しましょう。

武田氏の「やんごとない」血統背景を見てみよう。

武田氏の家祖は、「源(新羅三郎)義光=みなもとの(しんらさぶろう)よしみつ」と伝わります。義光は、平安時代後期の武将で、清和源氏・河内流の二代目棟梁・源頼義の三男です。

武田氏の家祖と伝わる「源新羅三郎義光」

清和源氏は、遡れば(義光からだと6代)清和天皇に行き着くという高貴な血統であり、河内流(河内源氏)は、後に「源頼朝」や「足利尊氏」といった稀代の国家指導者を輩出した偉大な系統です。そのため河内流は、清和源氏の諸系統の中でも嫡流として扱われるのが一般的です。

武田氏は家系図の通り、清和天皇から河内源氏の嫡流を経て、甲斐源氏の惣領家として君臨した。

義光の系統からは、「甲斐源氏」と「常陸源氏」が派生します。義光の血はさらに広がり、常陸源氏・宗家の佐竹氏、甲斐源氏の宗家となる武田氏、さらに安芸・武田氏、若狭・武田氏、信濃の小笠原氏、陸奥の南部氏ら、中世をまたいで近世に至るまで存続し、戦国大名として名を馳せた各家を世に送り出しました。

武田氏はどのように誕生した?

これら有力武家のうち甲斐・武田氏は、先の新羅三郎(甲斐源氏などの祖)の三男とされる「源義清」(甲斐源氏2代目)が、一族の所有する荘園領や、在庁官人(郷司など)として強い影響を及ぼし得る土地のうち、「常陸国 那珂郡 武田郷」を相続し、その地域名から「武田」を名乗ったといいます。

しかしこの義清、嫡男の「源清光」(甲斐源氏3代目)の狼藉行為により、朝廷から咎めを受け、親子ともども甲斐の国へと配流されてしまいます。この義清・清光親子の血縁たちが、甲府盆地各所に土着し、逸見、加賀美、安田、浅利、一条などに分家。甲斐源氏武士団を形成します。

甲斐に流れ着いた義清親子の子孫は甲斐各地に分布。惣領・武田氏を中心に甲斐源氏を形成する。

そして肝心の武田氏はというと、少し経緯がややこしかったですが、狼藉を働いたとされる源清光の次男・「信義」が、武田八幡宮(甲斐国 巨摩郡 武田郷)にて元服。この武田の地一帯を本拠とし、改めて武田氏を名乗ったといいます。この甲斐源氏4代目の「武田信義」を「武田氏の初代当主」とするのが一般的なようです。

一時は源氏の惣領「源頼朝」を圧倒する勢いだった。

河内源氏の本流が、保元の乱や平治の乱を通して、諸系統の断絶や没落などの弱体化を招く中、武田氏を始めとした甲斐源氏は中央の表舞台から距離を置く事で、結果として勢力を温存する形となります。

嫡流が途絶える危機に瀕した河内源氏を尻目に甲斐源氏は安定した勢力を誇っていた。

そして、いわゆる「源平合戦」として知られる「治承・寿永の乱」が勃発すると一転、甲斐源氏は宗家当主である先の武田信義を中心に、(源氏方の蜂起のきっかけとなった)「以仁王の令旨」に呼応する形で、積極的に中央の情勢にコミットしていきます。

挙兵した甲斐源氏は、一族結束し、またたく間に甲斐・信濃を手中に収め、緒戦で落命寸前の敗北を喫した「源頼朝」を尻目に、平氏の組織した官軍を「富士川の戦い」で破り、駿河・遠江までをも勢力下に収める事になります。

この時点で甲斐源氏は、北陸方面へ進出していく「木曽義仲」、坂東武者を糾合し、鎌倉入りを果たした「源頼朝」と肩を並べて、源氏の棟梁として並び立つ状況でありました。

のちに鎌倉将軍となる頼朝の指揮下から独立した、同格の勢力であったのは、甲斐源氏の家勢の充実を物語る、特筆すべきポイントといえます。

日本でも指折りの名門と言って良い存在では?

その後武田氏は、鎌倉・室町と時代を経る中で、決して順調とはいえないながらも甲信の地を中心に、その命脈を保っていきます。

そして戦国期に入ると15代当主・信虎による甲斐の諸勢力(守護代・有力国人衆)の武田家中への併呑により、甲斐を統一。戦国大名としての体裁を整えると、16代当主・信玄による武田氏の飛躍へとつながっていくのです。

武田氏の戦国大名としての土台を作った名領主。信玄の飛躍もこの土台なくしてはありえなかったのでは?

こうして見ると武田氏とは、天皇を祖先に持ち、歴史的な偉人の近親という血筋もさることながら、あの有名な信玄の時代よりもはるか以前に、既に世に名を馳せた偉大な家系だったという事がわかりますね。

そして、平安時代から世に出た系統で、有力御家人(鎌倉)→守護大名(室町)と家名を存続させ、戦国大名としても大いに存在感を示した家系というのは、それほど多くはありません。武田菱とはこれほどの名門が使用した家紋だったのです。

武田菱の広がりは?

ここまで、武田菱のルーツ、武田氏の家紋となった経緯、その武田氏の名門ぶりについて見て来ましたが、その武田氏に使用された事で、その名を知られた「武田菱」の広がりは、どのようなものだったのでしょうか?

長きに渡る存続が、数多の支流系統を生む。

先述のように武田氏は、武家の本流とも言える河内源氏出身の名門家系で、武門の黎明期から存在した最も古い部類に数えられる家系の一つです。そういった背景から、この武田氏と同族、またはその流れを引く系統は相当な数にのぼりました。

同格と言ってよい、のちの大名身分だけで、安芸・若狭の両武田氏、小笠原氏、南部氏などが挙げられ、代を経る中で甲斐源氏宗家から分家し、譜代家臣の家柄となった家系は、板垣、甘利、穴山、秋山、跡部などが代表的です。

武田菱は、一族を束ねる武田宗家の象徴となった。

これらの多くが、菱紋種を家紋として使用しています。それらは当然、武田宗家との関連から選択された家紋であり、それは一族としての結束の証であったり、名門家系とのつながりのアピールであったりと、さまざまな目的からの判断であったと考えられます。

しかしその中にあって、武田宗家と同じ「武田菱」を使う家系は非常に少なく、同じ割菱系の「三階菱」「松皮菱」または、宗家の副紋である「花菱」系の使用が多かったようです。宗家以外で武田菱を使用したのは、一部の近親であるか、特別に使用許可の下りた家臣筋に限られました。

三階菱・松皮菱・花菱といった系統に派生した。

しかもそれらは、厳密には武田菱ではないものが多いようです。と言うのも、一般に武田菱と呼ばれるタイプの四つ割菱は、通常のものとは違って、四つの菱同士の間隔が狭いというデザイン的な差異があるというのです。

菱の間隔を持って、オリジナル(武田菱)と変形(四つ割菱)を区別した。

武田宗家の用いる四つ割菱は、もちろんこの間隔の狭いタイプで、宗家以外の使用家系はオリジナル(武田宗家)にはばかって、通常の間隔の四つ割菱を使用したケースが多いようです。

長い年月を経ても、希少性を保ち続けた武田菱。

4つの菱で構成されるというシンプルな意匠でありながら、「四つ割菱(武田菱)=武田氏」の強固なイメージを作り上げたのは、こうした宗家以外への使用制限とも、周囲からの忖度とも取れる、囲い込み策が功を奏したと言えるかもしれません。

しかしそれ以上に影響があったのは、全国でも屈指の「家格の高さ」と「長きに渡る存続」により培われた、武田宗家の持つ知名度や権威性に依るところが大きかったのではないでしょうか。

そうでなければ、他氏族の(四つ割菱への)選択放棄も、同族の遠慮もこのような高い水準では起こり得なかったはずです。

武田氏の象徴「武田菱」は、それに相応しい由緒を持つ家紋だった。

このようにして、武田氏の専用紋と目されるようになった武田菱ですが、その存在は武田氏の象徴として、後世における彼らのブランディングに多大な貢献を果たしているといえます。

こうして、武田氏を象徴する紋章である武田菱は、名門武家の象徴としての猛々しいイメージと、宮廷文様がそのルーツいう優雅で華やかな由緒を併せ持つという、稀有な存在として現代に伝わったのです。

以上が家紋・武田菱の解説でした。その他の家紋の一覧ページは↓こちらから。

家紋・武田菱のフリー画像素材について

[家紋素材の発光大王堂]は、家紋のepsフリー素材サイトです。以下のリンクからデータをダウンロードして頂けます。家紋のフリー画像を探しているけど、EPS・PDFの意味がよくわからない方は、ページ上部の画像をダウロードしてご利用下さい。背景透過で100万画素程度の画質はあります。

家紋「武田菱」のベクターフリー素材のアウトライン画像

※「右クリック」→「対象をファイルに保存」を選んで下さい。

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