桔梗

桔梗

桔梗をモチーフにした家紋を主に用いていた人物は、何人か思い浮かびますが、飾りのないシンプルな桔梗紋を用いていた有名な人物といえば、明智光秀ではないでしょうか。

明智光秀とは、戦国時代から安土桃山時代期の戦国武将で、幼名は彦太郎。通称は明智十兵衛、のちに明智日向守、または惟任日向守とも。

自らの主君である織田信長を京都・本能寺で謀反の末に討ったとされる、いわゆる「本能寺の変」を起こした事で非常に有名な人物。

ただ、その動機に関しては、いまだ謎に包まれており、日本史史上における最大のミステリーの一つです。

光秀の出自は、美濃の国の守護大名で"清和源氏"→"摂津源氏"の流れをくむ、"美濃源氏"の嫡流でもある土岐氏の支流の一つである、美濃の国人衆・明智家の出とされています。明智光秀の家紋として有名なこの桔梗ですが、光秀の主筋ともいえる土岐氏も家紋として主に桔梗を用いていました。

織田信長の率いる当時の織田家の有力家臣としてのイメージの強い光秀ですが、織田家の正式な直臣となったのは40歳代半ばで、最終的な士官歴はわずか10年ほどと短く、それまでは、室町幕府15代将軍・足利義昭に(義昭の征夷大将軍任官前から)仕えていたとされますが、それとて30歳代後半の頃からであり、それ以前の光秀の履歴には、朝倉家への仕官など諸説あるようで、推測の域を出ていないようです。

その為、彼の前半生は、その知名度とはうらはらに、謎の多いものになっているのです。

ただ、その主君である信長には、大変に重用され、先に述べたように、わずか10年の仕官の間に(今でいうヘッドハンティングに近いものとはいえ)事実上の家臣団筆頭の地位まで上り詰めたのだから、光秀が如何に有能な人物だったかの証左といえるでしょう。

そこまでの信頼を受けていながら、光秀がそのような凶行に走ったのは何故なのか?

真偽は定かではありませんが、巷間に伝わる主人の苛烈な仕打ちに対する怨恨か、それとも突然に彼の頭をもたげた、果てのない破滅の野望の故か、はたまた歴史の闇に葬られた、黒幕の存在があるのか…。

今となっては知る由もありませんが、どちらにせよ変を成功させたその後の光秀の人生は、主君殺しの因果でも無いでしょうが、羽柴筑前(後の豊臣秀吉)の神掛かりの采配により、そのわずか11日後には幕を閉じる事になるのです。

桔梗紋自体は、とある武将が合戦時に、桔梗の花を兜の前立てに挿して挑んだ所、大勝利を収めたという由来や、桔梗の字のつくりの部分の「更に吉(さらによし)」という語呂が縁起の良いものとされて、人気のある家紋として明智家以外にも採用している家も多かったのですが、この本能寺の変を境として、「裏切り者の家紋」というイメージから、表立って使用することが憚られた時期があったとされています。

スポンサードリンク

※「右クリック」→「対象をファイルに保存」を選んで下さい。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

スポンサードリンク

  • カテゴリ0へ
  • カテゴリ1へ
  • カテゴリ2へ
  • カテゴリ3へ
  • カテゴリ4へ
  • カテゴリ5へ
  • カテゴリ6へ
  • カテゴリ7へ

スポンサードリンク