葵の御紋・徳川葵

葵の御紋・徳川葵の高精細画像

徳川家康は、なぜ松平姓を徳川に改称しなければならなかったのか?葵の御紋の由来は家臣からの強奪!?徳川家の成り立ちの様子や、葵の御紋・徳川葵にまつわる、誕生から現代に至るまでの知られざるエピソードを詳しくご紹介。葵の御紋の高精細画像も配布しています。ダウンロードリンクはページ一番下より。上の画像もダウンロード可能ですよ。

徳川葵とはその名の通り、徳川家の用いる定紋となります。徳川葵の家紋は「徳川」の姓と同様、その知名度の割に一般的な普及具合は皆無であるイメージですし、実際そうであろうと思います。(私は徳川さんや、また、家紋として徳川葵を使用している人に出会った事がありません。)

他にもこのような例はありますが、徳川氏の場合はそれが非常に顕著ですし、よく考えて見れば、何故そのような事が起こるのか疑問といえば疑問です。そこで今回は、徳川家の創設者である徳川家康公を中心に据え、徳川葵と徳川姓のルーツなどと交えながら、そのあたりの背景もご紹介できればと思います。

徳川家康とは、三河国の戦国大名で、後に征夷大将軍に任官し江戸幕府を創始した事で大変有名な人物です。家康は三河国額田郡の岡崎城にて、父・松平広忠の嫡男として生まれ、幼名は竹千代、元服して松平次郎三郎元信、同・元康、同・家康、勅許を得て徳川氏に改称後、徳川次郎三郎家康。通称は、次郎三郎、駿河大納言、江戸の内府、大御所、死後に東照神君、など。本姓は賀茂氏、後に藤原氏→豊臣氏→源氏。

家康が徳川氏へ改称する以前は、松平姓であった事は有名ですが、この松平氏とは、三河国賀茂郡松平郷を本拠とし、西三河一帯に勢力を誇った氏族で、多数の分家を持った事でも知られています。そのため、宗家(後の徳川本家の母体となる安祥松平家)も含めた松平氏一族は、十八松平とも称されました。

その中で、家康の出身家系である安祥松平家とは、三河国碧海郡の安祥城を本拠として発足したもので(後に岡崎城に転居)、当初は分家の一つでしたが、勢力が強かった事もあって、程なくして事実上の宗家扱いとなったようです。

しかし、それは逆に勢力が衰えると、他家に取って代わられる事態も有り得る訳で、事実、松平氏の氏族内部での主導権争いは、激しいものがあったといいます。その争いが高じて、松平家は家康の父である広忠の代には駿河の今川氏の庇護下に入らざるをえない状況に追い込まれ、それが故に幼年の家康自身も、かの家での人質生活を余儀なくされたのです。

松平から徳川の姓への改称は、正親町の帝に申請をし、許可を得て行っていますが、時期に関しては織田信長との清洲同盟の締結、三河国の統一を経て、三河守に叙任される際とされています。この徳川(得川)という姓は上野国新田郡得川郷を本拠として、清和源氏新田氏の祖である新田義重の四男(河内源氏三代目・源(八幡太郎)義家の曾孫にあたる。)四郎義季が興したといわれている家名です。

この(得川郷の領主としての)得川氏は程なくして消滅したとされていますが、後にその得川氏の末裔が三河国の松平氏に養子(松平親氏)に入った事を根拠として、徳川氏への改称(復姓の形で)の申請を行ったといいます。しかし、この親氏の出自については、その裏付けとなる確かな資料が発見されていないため、家系の改ざんを指摘する意見もあるようです。

この徳川姓への改称の意図は、父祖の代から悩まされてきた一族内の主導権争いに関連がありそうです。というのも、この改称の際、徳川氏を名乗ったのは家康個人(または安祥松平家とも)のみで、他の松平分家の姓はそのまま松平氏として、留め置かれる形となっています。この処置は、宗家筋にもかかわらず主導権を握れない根本原因である、多数の松平分家(親類衆として、ある種対等な関係となってしまっている)をけん制する意味合いが強いとされています。

事実、この処置を行う事で自身の家系(旧安祥松平家)を十八松平の中でも別格の家柄である事を暗に宣する事となり、他の松平分家は対等の親類衆扱いではなく、事実上の譜代家臣の格にその位置づけを引き下げる事に成功したようです。こうして家康は、松平一族内の不毛な主導権争いに終止符を打ち、対外的な活動に専念できる体制を整えたのでした。

その後も徳川姓とは別に松平姓も存続しますが、徳川姓の名乗りを許可されたのは、彼の一部の子孫のみで(徳川将軍家の家督を相続した三男秀忠と、いわゆる徳川御三家の祖となる、九男、十男、十一男の四人のみで、他の男子は松平姓を名乗りました。)、これは絶対数を絞る事で、意図的に家名の価値を持たせる事を考えた為とされています。(後にも、徳川御三卿と分家のみの使用に抑えられているそうです。)

単に姓が松平から徳川に変わったという事実については存じておりましたが、調べてみるとその背景には、思ったより沢山の思惑や事情が交錯していて、少々驚いてしまいました。これが事実であるかどうかは、また別のお話ですが…。

さて続いては、家紋「徳川葵」についてですが、この徳川葵は別名、丸に三つ葉葵ともいい、分類上では三つ葉葵の一種となりますが、大分すると葵紋の一種となり、その葵紋には他に、二葉葵や立ち葵などがあります。

その形状は時代が下ると共に、少しづつ変化していきますが、ここで採用している図案は、江戸時代後期に徳川将軍家が用いた13本芯の三つ葉葵です。個人的には、この形状が徳川葵として、一番馴染みがあります。

ただ、この徳川葵と丸に三つ葉葵の呼称の用い方ですが、徳川将軍家と徳川御三家が使用した、丸に三つ葉葵の事を徳川葵と呼ぶようですが、この図案のみを徳川葵とし、その他が丸に三つ葉葵とその派生とする例もあり、その線引は当方では定かではありません。

この徳川葵含む葵紋は、元は葵祭で有名な京都賀茂神社の神紋でありましたが、やがて、この賀茂神社と関連が深く、後にその神事を司る神官家(神主)となった賀茂氏(鴨長明などで有名)一族を象徴する紋章となり、家紋としても用いられるようになったそうで(二葉葵紋)、それから後は、他の賀茂神社の氏子家系の間でも、様々な葵紋を家紋として用いる事例が広まったようです。

日本各地に点在する賀茂(鴨、加茂)の地名(郡や郷)の由来は、かつて京都賀茂神社の神領であった名残であると言われ、その地域には賀茂神社を氏神とする氏族が多いとされています。

三河国にも賀茂郡が存在し、その在地武士団も賀茂神社の氏子などの関連の深い家柄などは、葵を家紋として用いる家も多かったようですが、家康の出身家系の松平氏などは、その発祥の地である松平郷が三河国の賀茂郡である事から、その多分に漏れず、賀茂神社の氏子であったといいますし、葵紋を使用する家柄の一つでした。

家康による徳川改称後も三つ葉葵紋の使用が継続されたのですが、以降、徳川家の家格の上昇に伴い、他家による(三つ葉葵は勿論)葵紋自体の使用が憚られるようになり、幕府の開府の頃になると、直接的に遠慮や禁止などを強制し始め、ついに江戸時代中期には、正式に制限が実施されました。

この一連の流れの結果、葵紋を家紋として用いる事が出来たのは、徳川将軍家の他に、御三家・御三卿・それと一部の松平分家のごく一部の氏族にとどまりました。(本来であれば、全面禁止としたかったところでしょうが、使用にあたっての正当性が覆らない場合などは、渋々許可をしたケースもあったようです。(元は賀茂神社の神官の家系である譜代家臣の本多氏など。))

このように使用家紋である葵紋に対しても、自家に対する権威付けに利用するため、先の徳川の姓のケースと同様の使用制限を行ったと考えられます。

自らの使用する姓と家紋に対して、特別な価値を付加させるこの戦略は、直接的ではないにしても、約260年もの間続いた徳川政権を支える役割を、多少なりとも果たしたのかもしれませんね。

「この画像のデータがほしいよ」という方は、下にあるダウンロードリンクから本家紋のベクターデータをフリーでダウンロードしていただけますが、EPS・PDFの意味がよくわからない方は、一番上の画像を(これでも900万画素の高画質画像です。)ご利用ください。

徳川葵

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