【有職故実】その意味や、特権階級に重んじられた理由を詳細に解説!

有職故実が重んじられた公家社会を描いた挿絵。有職故実(ゆうそくこじつ)とは、平たく言えば「儀式」とその「典礼」、またはその儀式・典礼の研究のことです。

この場合の「儀式」とは、朝廷で執り行われる大小さまざまな祭祀・式典・行事に関する形式や作法の段取りを定めたものをいい、その形式や作法の根拠となる過去の実例を「典礼」といいます。

さらに朝廷のみならず、のちには武士の誕生・発展にともなって、武士政権を頂点とした武家の”儀式・典礼”をも、含む概念として定着しました。しかしここでは、その発祥となった公家由来の有職故実について述べたいと思います。

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どうしてそれを「有職故実」と呼ぶのか?その言葉の意味

故実は本来「過去の事実」を指していいますが、有職故実でいう故実とは、古来より脈々と受け継がれてきた朝廷の営みの”実績”といえる「過去の実例」を、典拠(文献などから引用される確かな根拠)として持ち出し、伝統ある朝廷・公家社会の運営を滞りなく行っていく際の、根拠や説得力を担保する事をいいます。

そして「有職」とは、当初は有「識」と書き、本来は「”知識”を有し見識が高いこと、またはその人」を指す言葉でしたが、やがてその”知識”は「故実」を指すようになり「故実」に通じる事を「有識」とし、そうした者を有識者と呼ぶようになりました。

なお、のちにそうした「有職故実」が重んじられた事で、専門的に研究・継承する機運が高まり、それらを「職」とする認識が生まれた事から転じて、当初、有「識」であったものを、いつの頃からか有「職」とするようになったようです。

このような経緯から、意味はそのままに、文字だけが”識”から”職”へと変化したため、単に文字を見るだけでは意味の読み取りが困難になってしまい、そうした事が、現代において[有職故実]が”面倒な用語”として認識されている要因のひとつであると言えそうです。

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「過去の実例」(先例)を重んじるとは具体的にどういう事か?

このように、「過去の実例」(先例)に関する知識を有したり、研究することが「有職故実」なのですが、具体的には、例えば何かしらの行事を執り行う場合、その次第(順序)はもちろん、式場の装飾、着用する装束、座る位置などに関して、大変細かい決まり事が用いられました。

そしてそれらの決まりごと、いわば”先例”は、行事の当事者にとって、決して軽んじることは許されないもので、もしそうなれば、その個人の評価は著しく損なわれる事態となり、もっと言えばこれらの知識に頓着がなければ、朝廷においての地位・立場を確立することは難しいというような風潮だったのです。

このような事が重んじられる風潮は次第にエスカレートし、過去の実例を細微にわたるまで詳細に再現することが重要視され、それらが洗練された公家文化として、その保持の必要性が高まっていくのです。

その保持の手法はおもに、五摂家(※1)を始めとした名門貴族に伝わる、平安以降の儀式・典礼を仔細に記した日記などの、多数の記録書物を通して、知識の発掘・研究とその伝達により行われました。これらの日記が有職故実の資料として、たいへん重宝されたのです。

ちなみに、かつての公家社会では摂関家を頂点とする、鷹司流や九条流といった「門流」と、そこに所属する「家礼(けれい=のちに家来の語源となる)」の家々といった主従関係にも似た仕組みが存在しました。

しかし、これら貴族間の”縦割り”の関係も、先例に通じることが重視されるようになって以降は、「門流」に蓄積された有職故実の知識(主に朝廷の上層部に位置した人々の残した「記録類=日記」のこと)を「家礼」層に開放・伝授することで保たれるようになります。

「そんな事のどこに価値が?」と思わないでもありませんが、この事実は、公家社会の生活において、有職故実に通じることに、大きな価値が認められていたという証の一つといえるのではないでしょうか。

それらの記録から有職故実の発掘や研究がさかんになると、行事一つを執り行う際にも「過去の同様の事例はどうであったか」といった事が、”先例”としてしばしば持ち出される事が慣例となります。

その範囲は、宮中祭祀・宮廷儀式・年中行事・官位位階などに関する公的な分野にとどまらず、宮殿殿舎・服飾調度・食事遊宴といった私的な「衣・食・住」の分野にまで及び、さらに公家社会の風俗や習慣、公家としての規範や作法そのものを意味するようになります。

※1.平安後期以降、公家社会の頂点に君臨し、摂政・関白を持ち回りで世襲する近衛・鷹司・九条・一条・二条の5つの藤原氏流家系のこと。

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「有職故実」の活用は、公私にわたる”取り決め”だけに限らない。

また有職故実は、朝廷を維持・運営していく中で生じた問題の解決にも密接に関係しており、故実を紐解き”先例”を持ち出すことで、問題の解決策に根拠や説得力をもたらしました。朝廷という”組織”が意思決定をするにあたって、有職故実が大きな役割を果たしていたということです。

例えば、一度は”朝廷秩序”から外れた存在である「武家」を、再びその秩序に組み込む(主に官位を任ずる)などの、難しい判断や調整を迫られる際は、朝廷としての総意を形成するために、各々がさまざまな故実を持ち出し議論することが行われました。

重大な出来事の処理は難儀だが、それが「故実」となる。

その「先例」として以降の基準となったのは、源頼朝でしょうか。頼朝が就任した征夷大将軍は、本来の位階としては「従三位」相当の役職でしたが、実際には左大臣(今でいう首相クラス)相当の「正二位」でこの職に就いています。

源頼朝の台頭により政治の実権を失った公家衆はより有職故実を重んじるようになった。

すでに東国の独自支配を確立していた頼朝ですが、これは律令制の発足以来、初めて朝廷の支配から恒常的に離脱した支配組織が発生したという、ある種、象徴的なな案件だけに「ただの軍司令官」以上の意味合いを付与する必要性があったのかもしれません。

また、源氏嫡流が三代で途絶えた後、実質的な国家指導者となった「執権」は、実際の権力にかかわりなく、あくまで将軍を頂いたその補佐の地位であることから、その位階は「四位」相当に留め置かれたままという判断となったようです。

「先例」は”秩序”の形成に大きな役割を果たす。

これらの措置は新たな基準として慣例化されます。室町幕府・江戸幕府において、それぞれの将軍の補佐である「管領」や「大老」も、「執権」と同じく幕府独自の役職であり、律令の定めにないこともあって、その例に倣う事になりました。

また、建武の新政樹立に功のあった足利尊氏が、いきなりの従三位への叙勲、さらに将軍補任時には正二位となった事も、頼朝の例の影響が考えられますし、その後の足利将軍や戦国大名に対する処遇の根拠も、これらの”先例”に基づく事で穏便に治まったようです。

足利尊氏は武家にまつわる故実を根拠に朝廷に遇された。

当然その弊害が全く無かったわけではない。

が、そもそも朝廷人事そのものが、”先例”を重んじる価値観に凝り固まり、家柄によって出世の上限が厳格に定められ、そこには、能力の優劣が介在する余地が隙間もありませんでした。その最たる例が五摂家による関白職の持ち回りで、藤原氏流のこの五つの家系以外には、そもそも関白になる資格がなかったのです。

唯一の例外は、関白・豊臣秀吉(と、その甥である秀次)でしたが、そこに至る経緯において、有職故実を重視するが故に”先例”を根拠に、各々が主張の正当性を争うという事件が発生します。世にいう「関白相論」です。

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先例を踏襲することが筋目であり、正当とされたが…。

関白相論とは、急速に国家指導者としての地位を築きつつあった豊臣秀吉が、朝廷秩序に組み込まれ、一足飛びに官位が上昇していく中で発生した、朝廷の上級ポストをめぐる人事抗争のことです。

スムーズに事が運ばなかった公武の融合。

日の出の勢いで勢力を増していく秀吉は、朝廷に対して自身の「左大臣」補任の要望を示します。”先例”に照らしてみれば、天下人(見込み)たる秀吉が左大臣職であるのも筋は通りますが、秀吉のその要求を飲むには一つだけ問題がありました。

豊臣秀吉の意に沿った人事案。これでは近衛が一人泣きを見る結果に。

この当時、現職の左大臣は近衛信輔でしたが、秀吉に左大臣職を譲るとなると、近衛には他に適当な官職がないことから、彼は”官職がない状態”となってしまいます。

近衛信輔は、五摂家の筆頭である近衛家の当主ですから、エスカレーター式に関白就任が約束された立場であるため、「無官」の状態も一時のことでしたが、近衛にはこのまま左大臣を譲位するわけにはいかない事情がありました。

小事にこだわって大事の伝統を台無しにしてしまった。

近衛家にはその長い歴史の中で、「無官」の状態で関白に就任した”先例”がないからです。そのことを強く気にした近衛は、半年前に就任したばかりの現、関白・二条昭実に対して(近衛が左大臣職のまま関白に就任したいがために)、即時の関白譲位を要求します。

当然これには、二条もだまってはいません。「二条家では、初任の関白が一年以内にその職を辞した”先例”はない」として、近衛の要求を突っぱねます。

引き下がらない両者は、正親町天皇に自身の正当性と相手の誤りを訴えて、裁断を仰ごうとします。さながら訴訟ごとの様相を呈したこの事件が「関白相論」ですが、両者とも考えつく限りの”先例”を持ち出し、泥仕合となったこの問題は、秀吉が介入する事でようやく収束に向かいます。

近衛・二条、どちらの側に立っても、両家に大きな遺恨が残る状態であると判断した秀吉は、なんと秀吉自身が(内大臣のまま)関白に就任するという予想外の解決策を以ってこの騒動に終止符を打ちます。(近衛は左大臣職を死守しますが関白はおあずけ、二条は関白在位が一年足らずで退任という、両者痛み分けの結末。)順番制の世襲で引き継がれてきた関白職を豊臣秀吉が乗っ取った形に。

歴史上有名な関白相論はこのような形で幕を引くのですが、言うなればこの「先例の応酬」の結末が、「五摂家以外の」かつ、「武門として」初めての関白が誕生するという、「先例のない」結果となったのは、なんという皮肉でしょうか。

有職故実は所詮、ただの「形式」なのか。

有職故実を重んじるという事は、「先例に則ること」がルールであり秩序であるといって良いのですが、それが故に、通常それを顧みない態度というのは、傲慢で思い上がった振る舞いとして非難の対象となりえます。

しかし、権力基盤の強力な指導者が強引な手法に出れば、(それら権力者から見れば、先例を重視するなどという)”実態のない無意味なこだわり”など、あっという間に覆されるという事態もまた、歴史上いくつも例があります。その面で言えば、この秀吉の関白就任もそういった例の一つと言えるのかもしれません。

いずれにせよ、こうした歴史的な局面においても、朝廷の”あり方”に重大な意味を持つ有職故実によって、その結末が左右される事もあったのです。

さまざまな場面で公家社会と一体化する有職故実。

有職故実を重んじていく中で、例えば官位位階に関して”先例”が持ち出されるケースは以上のようなものが挙げられますが、さきにも述べたとおり、公家社会においての有職故実による取り決めは、公私両面において非常に多岐にわたるものです。

それは、有職故実という概念が「有職文様」「有職料理」「有職装束」「有職読み」などの、さまざまな分野に分類されていることからも明らかです。その中でも「有職文様」や「有職装束」に関わるものの例を挙げれば以下の様なものがあります。

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数ある「有職文様」の中でも雲立涌(くもたてわく)文は、関白の袍(ほう=正装の上着)や親王(天皇の嫡流男子)の袴などに専ら用いられた高貴な文様として有名です。この雲立涌文は、現在でも男性皇族の指貫(さしぬき=伝統的な衣装のボトムスにあたる)に使用され、影響を残しています。

指貫や袍といった公家衆の公式装束にあしらわれる文様も有職故実に則ったものだった。

また五摂家の一つ、九条家の有紋冠の文様は、(雲立涌文と同様に)長年の慣例から、「目結い=めゆい」文が用いられてきました。室町から戦国時代にかけて、近江国の南北をそれぞれ支配した六角・京極両家を輩出する近江源氏の佐々木氏は、かつてはこの九条門流の家礼として主従関係にありました。

冠一つとっても先例に基づいた理念が存在した。

その六角・京極を含む佐々木氏流の家紋が「四つ目結」であるのは、「名門・九条家ゆかりの家柄である」ことを示すためともいわれています。それだけ「目結いといえば九条」というイメージが浸透していたわけですね。

有職故実に基づく伝統的な文様である雲立涌と目結い。

甲斐武田氏の「菱」越前朝倉氏「木瓜」も、元は公家衆に重用された有職文様を元に、家紋として据えられたものです。これらのような事から、公家社会においては、たかだか文様ひとつに対しても先例を重視する価値観を当てはめ、またそれが価値を持って広く社会全体に浸透していた事がわかります。

有職故実にまつわる伝統的な文様である菱文様と木瓜文様。

なぜ有職故実は、これ程に重んじられたのか?

そもそも有職故実とは、当初「学識豊かな」であるとか「教養高い」といった意味で使われていた語でした。

その後、有職故実を専門的に研究・検証する機運が高まった事により、冒頭で解説した「過去の実例(先例)に関する知識を有したり、研究すること」を指す語となっていったのです。

そのような機運が高まった要因として、「先例に基づくことを最重視する」という、長きに渡って公家社会を取り巻く事になった伝統主義的な価値観が芽生えたことが挙げられます。

ではなぜ、そのような「伝統主義的な価値観」が芽生えたのでしょうか。それは平安時代の終盤以降、源頼朝らを始めとした武士階級の台頭により、徐々に朝廷から国政執行の実態が失われていった事と無関係ではないでしょう。

本来の存在理由を失ったことが転機となる。

朝廷から武士へ国家権力の主体が移るということは、朝廷という組織が、かつてのように野心や才能、そして権力が集積し、人々が(最も)重きを置くような「動的」環境、もっといえば「物事の中心」ではなくなったという事です。

このような「権力の喪失」が固定化してしまった鎌倉時代以降、天皇を頂点とした朝廷組織の骨格であり、何より、国家を統治するための基本システムであった「律令」制は急速に形骸化していくことになります。

そのような中、公家衆ら朝廷勢力は、「国家統治の基本システム」という本来の目的を失った「律令」制の形式を様式化し、公家社会の「理念」として発掘・実行・伝承する事で、まるで伝統芸能のようにその様式美を追求する姿勢を鮮明にしていったのです。

この事は、朝廷が国家運営に対する直接的な影響力を失ったが故に、例えば意思決定の迅速化などの政治的な合理性が求められなくなった事も、それを可能にした要因の一つといえるでしょう。

いずれにせよこのような経緯から、先例を重んじるという価値観が、公家社会にとって重要なウェイトを占めるようになっていったのです。有職故実とは、単に先例に関する知識というだけにとどまらず、さながら彼らのとっての秩序や規律そのものといっても良いのかもしれません。

有職故実とは朝廷が存在する価値を失わないために必要な要素だった。

本来であれば国家を統べる正当性は、天皇が存続する限り、朝廷にあるべきで、武家政権とはあくまでその”亜種”であるという見方もできます。

形骸化しながらも天皇を擁した朝廷が、細々ながらも存続しえたのは、形式化した律令制の様式美を追求する事により”保存”された正統性や権威が、時の権力者にとっては一定の利用価値があったからに他なりません。

逆説的に言えば、伝統とそこから生まれる権威には価値があるのだから、有職故実を尊重し、伝統を継承していく事には、ある種の必要性があったということです。そうでなければ朝廷ならびに公家衆が、1000年をゆうに超える長きに渡って存続することは不可能だったといえるでしょう。

有職故実の名のもとに、旧体制の統治機構の存続に注力するという、一見無意味に思えるその姿勢は、朝廷やそこに属する人々が生き永らえるために必要な術だったのかもしれません。