【有職文様】とは?代表的な種類は?その意味やルーツも徹底解説!※内容はクドいです。閲覧には十分な注意が必要です。 -

【有職文様】とは?代表的な種類は?その意味やルーツも徹底解説!※内容はクドいです。閲覧には十分な注意が必要です。

平安時代を描いた絵巻物に登場する輿車に有職文様が描かれている。このように古来より様々な種類の有職文様が、華やかな貴族生活に用いられてきた。

和文様の基調として現代に伝わる有職文様。この日本の誇る伝統文様の起源は、はるか欧州やオリエントの地である事はあまり知られていません。本記事では、そのダイナミズム感あふれる成り立ちや、華やかな公家社会との関わりを詳細に解説!さらに代表的な種類を画像と共に紹介しています。

有職文様はどこで生まれ、どのようにして伝統文様となったのか?

有職文様とは、平安時代以降の公家社会において、その装束や調度、輿車、建築内装などに用いられた伝統的な文様のことをいいます。ただしこのような呼び名となったのは近世以降となります。

現代においても、和風文様や家紋デザインの基調となって受け継がれている有職文様ですが、その起源は、ここ日本ではなく、大陸から伝来した古代文様を原型としています。

この古代文様は、古代オリエント(メソポタミア・エジプト文明が興った現代で言う中東地域。のちにヨーロッパ文明にも多大な影響を残した。)で誕生したとされ、長い年月をかけて様々な地域・民族の影響から、次第にその形を変え、バリエーションを増やしつつ、世界各地へと伝播した由緒ある文様群なのです。

有職文様のルーツは、シルクロードをつたった先、はるかオリエントの地だった。

アジアへはシルクロードをつたって流入し、中央アジア圏・インド圏・中華圏へと広がっていく中で、現地のさまざまな文化と混ざり合っていきます。

こうして中国の地でアジアナイズされた大陸文様は、唐風文化として、仏教建築・調度・服飾などの形で日本に伝来します。仏教の受容をめぐって「崇仏派」と「廃仏派」が争った”丁未の乱”は西暦587年といいますから、ちょうど古墳時代のあたりでしょうか?

その後、鎮護国家(御仏の加護によって国家を鎮護する)を志向し、東大寺(奈良の大仏)と国分寺の建立があった奈良時代に唐の文化の流入は加速します。ただ、当時の日本の文化面は、古代中国の影響力だけを受けていたわけではないようです。

有職文様をはじめとする様々な種類の文化は仏教ととも伝来したが、鎮護国家を志向する事により、ますます大陸文化の流入が加速した。

純度の高いオリエントの文化も流入。

大陸では、西暦600年代中頃にササン朝ペルシャがイスラム勢力の台頭によって滅亡し、ペルシャの王侯貴族たちは、一族郎党を引き連れて唐に亡命します。

この唐に亡命したペルシャ人たちによって、ペルシャ由来の工芸品が、多数生み出される事になりますが、これらの工芸品は、唐の強い影響下にあった当時の日本にも伝来するようになりました。これらの工芸品は、大変貴重なものとして扱われ、その一部は「正倉院」に現存していることで知られています。

正倉院には日本や唐だけでなく、世界各地の宝物が納められている。これらの時代背景が、有職文様の種類などの多様化につながった側面もあるだろう。

どれほどの影響力があったかは定かではありませんが、こういったペルシャ由来の工芸品に用いられた、さまざまなオリエントの文様に触れることで、唐という「フィルタ」を通さない、高純度のペルシャ文化の直接的なアプローチを当時の日本人は、大なり小なり受けていたという事です。

伝統的な和文様として現代に伝わる「亀甲」「七宝」「青海波」「市松」「立涌」などは、オリエントの地がその発祥とされ、大陸各地を経て日本にもたらされたとされていますが、案外これらからの直接的な影響があったのかもしれません。

有職文様の原型は、古代のエジプト・欧州南部などに求めることが出来る。

葡萄立涌(ぶどうたてわく)文のブドウなど、明らかにブドウ酒の文化圏特有のもので、あまりブドウに馴染みのない当時の日本では、生み出されるべくもない文様といえます。

有職文様の一種、葡萄立涌は、そのモチーフがヤマブドウでないことからも、日本で創作された文様とは考えられない。

しかしいずれにせよ、それらの文化も隋や唐を通して伝えられていた事に違いはありません。

文化における日本の独り立ち、国風文化の成立。

このように、遣隋使の派遣に端を発し、国家体制・技術・文化などあらゆる面に及ぼされていた隋・唐からの影響力ですが、日本社会の成熟と唐の弱体化と共に、平安時代の半ばに差し掛かる頃には、すっかり陰りを見せてしまいます。

遣唐使の廃止が決定される頃には、それまで蓄積された唐風文化や大陸文化を独自に発展させた「国風文化」が花開き、大陸由来の文様も、その特徴を変形・単純化した、”日本独自の文様”として生まれ変わり、発展していく事になります。

華やかな先端文化から、様式化した伝統文化へ。

この平安時代中期以降は、散発的だった藤原氏の権勢も固定化され、藤原道長に代表される摂関政治が隆盛を極めます。文化における”最先端のモード”は、藤原氏を中心とした上級貴族から発信されました。

このような時代に、公私にわたって華やかな貴族生活に密接し、建築内装や調度・服飾などに用いられた”日本独自の文様”は、やがて「有職故実」を構成する重大な要素の一つとして様式化され、後々の世まで受け継がれます。

そしてこれらの文様は近代以降、「有職文様」と呼ばれ、現代においても和柄模様の基調となる伝統的な文様群として伝えられているのです。

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有職文様の代表的な種類

具体的にそれら有職文様は「連続文様」や「定型文様」が多く、その種類は

【七宝しっぽう】

有職文様の一種「七宝」。古代エジプト文明でも使用が確認されている。七宝とは仏教用語で、この幾何学文様が何故日本では七宝なのかは定かではない。

【鳥襷とりだすき】

有職文様の一種「鳥襷」。線が斜めに交わった様子を「襷」というが、これに鳥の文様を混じえたものの事をいう。

【向蝶むかいちょう】

有職文様の一種「向蝶」。日本で蝶を中心に据えた文様が用いられるのは、この向蝶が最も古い部類となる。

【?か(木瓜もっこう)】

有職文様の一種「?」文様、または木瓜文様。その由来は諸説あるが、「?」という漢字の意味を考えれば、水鳥の巣をかたどったものであるという古代中国の由来が最も有力か?

【小葵こあおい】

有職文様の一種「小葵」。ゼニアオイを模した文様ともいわれるが、ヨーロッパ南部が原産で江戸時代に観賞用として舶来した草木である事実を考えれば、この説は考えづらい。

【立涌たてわく】

有職文様の一種「立涌」。雲が立ち登るさまを文様化したとも、古代オリエントのパルメット文様から忍冬文様を経て蔓性の連続文様から派生したともいわれる。

【亀甲花菱きっこうはなびし】

有職文様の一種「亀甲花菱」。亀甲文様とは、古代オリエントの地で興り、中国を経てもたらされた幾何学文様。日本では亀の甲羅に似ていることからこの名がついた。

【八つ藤の丸やつふじのまる】

有職文様の一種「八つ藤の丸」。この八つ藤の丸は、浮織にした綾織物に用いられた大型の円文のうちの一種として重用された。

【向鶴むかいつる】

有職文様の一種「向鶴」。鶴は東アジア文化圏で、長寿の象徴として有名で、日本でも古くから長寿を願う吉祥として盛んに用いられた。

【幸菱さいわいびし】

有職文様の一種「幸菱」。花菱文様を繁文状に組み合わせた文様。

【菱ひし】

有職文様の一種「菱」。襷上に、二方向の平行線が交わって出来た幾何学文様で、世界各地で見られるもの。日本でも縄文式土器に描かれていたことが確認されている。

などが代表的とされています。

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有職文様が「有職」文様と呼ばれる理由。

それにしてもなぜ、このような経緯から生まれた”日本独自の文様”が「有職文様」と呼ばれているのでしょうか?それは「過去の実例」(先例)に関する知識を有したり、研究することを意味する「有職故実」と深い関わりがあるからです。

有職故実や有職文様が重んじられた公家社会の様子を描いた絵巻物。

少なくとも「有職」とかいう得体のしれない、何らかの物質のようなものが、デザインのモチーフになったというわけではありません。

「有職故実」とは?

しかし一体、有職故実とは何なのでしょうか?「過去の実例」(先例)に関する知識や研究と言われても、いまいちピンと来ません。有職故実は、その意味を説明するのが大変難しい言葉なのです。

【有職故実】その意味や、特権階級に重んじられた理由を詳細に解説!※内容はクドいです。閲覧には十分な注意が必要です。
かつての特権階級が重んじた、公家や武家社会における「先例」に関する知識や研究を指す有職故実。その意味はもちろん、どのような経緯で生まれ、重きをなしていったのかを詳細に解説します。

そこでまず、有職故実を理解する大前提として押さえておきたいのが、近代前後までこの国に存在していた「朝廷」という組織において、最も重要視されたのが「何事においても先例を重んじる」という伝統主義的な価値観であることです。

それではなぜ朝廷では、そのような「伝統主義的な価値観」が重視されたのでしょうか。

「先例」が重んじられるようになった経緯や理由。

その疑問を解決するには、さらに朝廷のように長い歴史を誇る社会や組織においては、過去に決められた決まり事が、時間の経過とともに最適な手段ではなくなってしまうという事も理解しておかなければなりません。

だからといって、事があるごとに関係各所の「こうするべき」といった意向の調整をとるのは非合理的と言えるでしょう。意見の相違によって、組織の分裂や消滅を招かないためにも、ある程度の「約束事」は必須です。

また、物事に「いつ」「誰が」関わる事になっても、一定の結果が得られるように、無思考に物事を運ぶことが出来るマニュアルのような存在も必要でしょう。つまり、時代がいかに移り変わろうとも、安定的に組織を運営するためには”理念”(「こうあるべき」という根本の考え)が必要とされたのです。

平安貴族たちはその理念の”根拠”を「過去の実例(先例)」に求めました。意見の相違があった際に「先例では〇〇であった」であるとか「〇〇には先例がない」というような形で、意見の集約を容易に運ぶためです。

いかに朝廷(即ち公家社会)といえど、秩序立った運営がなされなければ、存在自体も危うくなります。そのため、「先例に関する知識」は重要視され、そのための研究や発掘も盛んとなりました。これを有職故実といいます。

「先例」を重んじる伝統主義的価値観を具体的に。

例えば、祭祀・式典などの何かしらの行事を執り行う場合、その次第(順序)はもちろん、式場の装飾、着用する装束、座る位置などに関して、大変細かい決まり事が定められていましたが、これらの決まり事の根拠も「以前がそうであったから」という”先例”に倣ったものでした。

位階の昇進や官職の補任などの人事も、家柄により出世の上限が定められるという、有名な公家社会特有の「家格主義」はもちろん、その時期や順序までも先例に基づく事で、秩序立てて行われたのです。

その範囲は、上記のような「宮中祭祀」「宮廷儀式」「年中行事」「官位位階」などに関する公的な分野にとどまらず、「宮殿殿舎」「服飾調度」「食事遊宴」といった私的な「衣・食・住」の分野にまで及びました。

このように、公家社会においての有職故実に即した価値観は、公私両面において非常に多岐にわたるもので、それは、有職故実という概念が「有職文様」「有職料理」「有職装束」「有職読み」などの、さまざまな分野に分類されていることからも明らかです。

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有職故実の中の有職文様。

以上のような事を踏まえると有職故実とは、朝廷秩序の根幹を成しているといっても良いものです。優美で格調高い国風文様は、そんな有職故実の重要な構成要素の一つである事から「有職文様」と呼ばれるようになったというわけです。

朝廷社会によって取り入れられ、変化を共してきた文様ですが、その社会が、長い歴史を刻んでいく中で、時代に取り残されていく事と、無関係ではいられません。有職故実が形成され、徐々に絶対視されていく中で、その一部となった文様も強い影響を受けるのは当然と言えました。

有職文様の有職故実における位置づけとは?

公家や文官の装束の色や文様は、律令制の制定により、位階や官職による区分けが存在していましたが、その区分けは、平安時代の中期ごろからより厳密化していったといいます。

また、その位階や官職は(有職故実に基いて)、徐々に出身家系ごとに固定化されていったので、実質は家柄による定めがあったと言って良いのかもしれません。

さらに、その区分けは、単純な家柄や身分だけでなく、時期や状況によっても細かに変化したといいます。

有職故実という「暗黙のルール」により、文様も使い分けの形式化が進み、どのような階級の人が、どのような場面で、どのような文様のあしらわれた衣装・装飾・調度を選択するのが適当であるか、という考え方が慣例化したのです。

それらの慣例が固定化され、後世へと受け継がれていった事から、いつの頃からか優美で格調高い国風文様は、先例を踏襲する「有職」文様となっていったのでした。

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有職文様の具体例。

それではここで、どのような場合に、どのような文様が用いられていたかの具体例を、幾つか挙げてみましょう。

桐竹鳳凰(きりたけほうおう)

桐竹鳳凰文とは、「徳の高い王者による平安な治世を告げる」または「聖天子の出現を待って現れる」といった吉兆の象徴である古代中国の「鳳凰」伝説に因む文様です。鳳凰は120年毎に結実するとされる竹の実を食べ、桐の木に留まるとされることがその由来です。

そのような由来から、支配者にふさわしい文様として、中国の皇帝にも愛用された桐竹鳳凰文は、日本においても天皇の専用の文様として使用されました。

天皇の正装の袍である黄櫨染御袍に現在も用いられている桐竹鳳凰の文様。

元は天皇家専用の紋章であり、現在は内閣府および内閣総理大臣の紋章として使用されている桐紋の元となった文様であり、天皇の正装の袍にあしらわれる文様として現代においても、そのまま引き継がれている伝統的な文様です。

小葵(こあおい)

冬葵の生い茂る様子を象ったものとされる「小葵」は、天皇の略装である「御引直衣=おひきのうし」に用いられた文様です。

小葵は有職文様の代表的な文様の一つで、現代でも重用されている。

ちなみに「直衣=のうし」とは本来、平安時代の上級貴族の平服のことを指しますが、御引直衣はその裾を従者に引かせなければならないほど長い装束であり、略装ではありますが、本来の直衣とは別のものです。本来の直衣には「三重襷=みえだすき」が用いられました。

有職文様の一種「三重襷」。三つ重ねられた襷状の図形で表現された文様。

唐草(からくさ)

元は古代エジプトで創作されたパルメット文様がルーツとされる、蔓性の連続文様である「唐草」は、有職文様の基盤的な文様の一つで、それ自体はごく一般的なものですが、さまざまな文様と組み合わされることで、意味合いが違ってきます。

唐草文様のルーツは忍冬文用から遡ってパルメット文様であるといわれている。

輪無(わなし)唐草や轡(くつわ)唐草は、「通用文様」の一種とされ、ごく一般的な中央貴族の「袍=ほう」(貴人の正装である束帯の上着)の文様という意味では代表的です。上級貴族には、各家の袍に用いる、専用の文様がありましたが、それら上級貴族も、大臣になるまでは他の家と同じように「通用紋様」を用いるのです。

唐草文様の一種である輪無唐草と轡唐草。

菊唐草は、のちに皇室の紋章となる「菊」との組み合わせです。基盤的な文様である唐草が、菊と組み合わさることで高貴な意味合いとなり、上皇の装束などに用いられました。

有職文様の一種「菊唐草」。伝統的有職文様である唐草に菊の文様を組み合わせたもの。

立涌(たてわく)

中央で膨らんで上下ですぼむ波状曲線が相対する連続文様である「立涌」は、曲線の間に入る文様によって意味合いが変化します。雲模様が入ると「雲立涌」となり、関白の袍や親王の袴など、高貴な身分に用いられました。また竜胆(りんどう)紋のはいる「竜胆立涌」は、五摂家の近衛流の袍の文様として用いられました。

立涌文様の膨らみ部分に入る文様によって、名前や用途が変わる。

雲鶴(うんかく)

高き雲中を飛ぶ鶴を表した文様で、「凡人より抜きん出る」といった意味合いがあります。若き親王(天皇の直系男子)専用の袍の文様として用いられました。また、太閤(引退した関白の呼び名)にも使用が許されました。

有職文様の一種「雲鶴」。長寿の象徴である鶴が、雲を突き抜けるさまを描いた吉祥文様。

御簾帽額(みすもこう)

室内外を仕切る「御簾=みす(上品な”すだれ”といったところ)」の上の縁につけられた布を「帽額」といい、か文(木瓜紋ともいう)と蝶の組み合わせの文様が用いられました。

御簾の帽額部分には?文様が用いられることが定番であったため、?文様を帽額とも呼ぶようになった。

冠の文様について

都の公卿や文官には、宮中における勤務服である衣冠・束帯(平安貴族の正礼装)と共に冠の着用が義務付けられていました。位階が五位以上の者は文様入りの「有文冠」であることが普通でしたが、その冠の文様にまで有職故実の定めが取り決められていたのです。

冠一つとっても先例に基づいた理念が存在した。

五摂家の場合でいうと、近衛門流(五摂家の近衛・鷹司両家とその家礼筋)は俵菱系の文様を、九条門流(五摂家の九条・一条・二条の各家とその家礼筋)は隅立て四つ目か四つ割菱系の文様を用いることが故実とされました。

有文冠の羅に用いられた五摂家の代表的な文様。

いずれの場合も、角立て(隅立て)か割菱の系統の文様であり、元はただの割菱だったものが、五つの摂家に分裂後、区別のために「俵」や「目結い」を用いるようになったものが慣例とされ、重要視されるようになったと推測されます。

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このようにして日本の伝統文様である「有職文様」は現代に伝わった。

ご覧のように、有職故実は細部にわたり決まり事が定められているので、貴族たちの服飾に関する取り決めにおいても、このような形で文様が関わってくることになります。

また、有職文様の決まり事の及ぶ範囲は、文様に関わる大部分がその対象となるので、単に身に付ける装束にかぎらず、身の回りの品である調度品や建築内装から、移動に用いる輿車 (よしゃ) の外装といった広範囲なものとなったのです。

考えようによっては、当時の人々にとって文様は、とても重大な関心を払う対象であったといえ、彼らの美に対する意識の高さを伺うことができます。

長く残るものにこそ価値が有るのかもしれません。

現代に「有職文様」として伝わる伝統的文様群。その文様群はかつて、畏敬と憧れの対象である大陸文化の文様であった頃は、人々が胸高ならせる存在でありました。また、絶大な権力を手にした上級貴族層によって生み出される、国風の文様となってからは、公家社会の綺羅びやかさや華やかさを演出する存在であったでしょう。

ただ、いつの世も流行の最先端の象徴であった文様群も、武士階級の台頭により、公家社会が実質的な国政執行権を失ってからは、そのかつての瑞々しい印象を失ってしまいます。そればかりか、形骸化した朝廷とともにその存在自体が失われてしまってもおかしくはありませんでした。

しかし、天皇を中心とした朝廷権威の保存と、朝廷そのものの生き残りのために、伝統様式と化した公家秩序(有職故実)に巻き込まれるような形ではありましたが、「かつての栄華を偲ばせる」というような、伝統と格式へのあこがれという別種の価値を見出されたことで、生き残りを図ることが出来たのだといえるでしょう。

数ある家紋の中でも「桐」「藤」「木瓜」「蔦」「橘」といった、伝統的な紋はこの有職文様が元となって生まれました。そちらにも興味のある方は上のリンクから。↑↑↑