【家紋】鷹の羽紋はなぜ武門に好まれたのか?その意味や由来を徹底解説!【ガチ勢】

その勇猛さから空の王者とも称される『鷹』。その羽根をモチーフとしたのが家紋・鷹の羽ですが、ではなぜ『羽根』を家紋とし、その使用が広まったのか?多くの武門に支持された家紋としても知られますが、その理由は?この記事では、そのあたりについて徹底的に解説しています。

鷹の羽紋のモチーフとなったタカ

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家紋「鷹の羽」(鷹の羽紋)の一覧

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タカと人間との関わり

タカの羽根が、紋章のモチーフに取り上げられた理由は、古来よりのタカと人間との深い関係性にあります。まずはそのあたりを見ていきましょう。

『タカについて』のおさらい

『タカ』とは、オオタカ・ハイタカ・クマタカといった、タカ目タカ科に属する中型の肉食鳥類を指していいます。

「ワシ」「ハヤブサ」「トンビ」「コンドル」などと並んで「猛禽類」とも呼称され、これらは獲物を掴んで離さないための鋭く大きな爪と、力強い足、特徴的な鉤状のクチバシを持ち、「捕食者(ハンター)」として狩りを行う総合能力が極めて高いという共通点を持つ事で知られています。

そのため猛禽類は、自然界の「生態ピラミッド」のうち、飛行能力を有する生物の頂点に位置する存在であると言えるでしょう。

タカと人間の関わりといえばやはり…

このような特徴を持つ猛禽類は、古くから人々の間では「勇敢さ」「力強さ」「スピード感」「高貴」「スマート」といったものの象徴として扱われており、紋章や文様を始めとしたデザインのモチーフや、神話や伝説といった文学の題材に用いられた事から、比較的、人間とのかかわりの深い生物と言えます。

そのかかわりの深さを示す最も象徴的なものといえるのが、中型の猛禽類(コンドルやハゲタカなどは大型の猛禽類)を用いた狩猟活動である「鷹狩」ではないでしょうか。

元はアジアの遊牧民の間で発達した狩猟法と言われ、ヨーロッパや中東、インド、東アジアなど、世界各地でその活動が見られたようです。

大型の猛禽類であるコンドル

日本における鷹狩

この鷹狩と呼ばれる狩猟活動は、かつての我が国においても盛んに行われた事が知られていますが、その目的は、生活の糧としての側面は皆無で、富裕・支配層による訓練・娯楽を目的とした、専ら権威の象徴的な活動であったといわれています。

現代に生きる我々からすれば「鷹狩」とは、戦国時代や江戸時代に行われた武士特有の文化であるというイメージが根強くあります。

しかし、日本における鷹狩の歴史はそもそも、武士そのものの誕生よりもはるかに古いようで、手に鷹を乗せた埴輪の存在から、古墳時代か、またはそれ以前より始まっていた可能性が高いとみなせます。

歴史区分で言う「古代」期には、専任の「鷹匠」や狩場に指定された「禁猟区」も存在したとされますが、少なくとも飛鳥時代の末期には、公的に天皇の鷹狩行事を司る部門が置かれた事は、資料の記録からも確実です。

奈良時代以降は、大伴家持や橘奈良麻呂など貴族の愛好が知られ、皇族においては、桓武・嵯峨・陽成・光孝・宇多・醍醐・一条・白河の各帝も大いに嗜んだとされています。

鷹狩とは、かつて軍事も司った皇族・貴族の当然の嗜みだった

彼らにとっての鷹狩とは、単なる娯楽ではなく、のちの武士の考えと同じく、集団による戦略性を養う軍事訓練としての側面も有していたようです。今でこそ『のほほん』としたイメージで語られることの多い皇族・貴族ですが、かつては政治・経済・軍事といった日本国統治の中枢を一手に担っていた存在でした。

したがって、天皇またはその執権を代行する可能性を持つ上位貴族は、律令の定めるところの武官を統括する軍事指揮官としての立場も有しているわけですから、鷹狩のような雄々しい活動は、当然の嗜みといえるのかもしれません。

このように、日本における鷹狩とは、有史以前からその歴史を持ち、古代から中世の皇族・貴族のライフスタイルの一部にも深く組み込まれた活動だったようで、その比重は、後世の武士たちにも劣るものではなかったようです。

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『鷹』や『鷹の羽』は『武』の象徴として捉えられていった

『鷹』に対する一般的イメージや、狩猟という活動の荒々しさから、『鷹』は『武』の象徴的な存在の一つとして捉える向きもありました。そのため鷹は、朝廷における公務の中でも、軍事に関係するものとの関連が深くなっていったようです。

『鷹の羽根』をもって『鷹』とする風潮

実際、天皇の即位式や元日節会を始めとした朝廷で行われる重要行事においては、近衛府(このえふ=宮中の護衛に携わる部署)の大・中・少将といった上級武官が礼服とともに用いたという冠である『武礼冠(ぶらいかん)』に、装飾として”鷹の羽根”を挿すという習慣が存在しました。

また、そういった重要行事の際には、内裏にある近衛府の詰め所にも”鷹の羽根”が掲げられたといいます。このような伝統的な習慣は、やがて”鷹の羽根”は『鷹』そのものを象徴する存在という認識を浸透させていくことになります。

武士の象徴とも関連の深い鷹の羽

さらに、日本における一般的な弓矢の矢羽根に用いられる羽根が、鷹のものであったという事実も、見逃せません。

なぜなら、武士にとっての弓矢とは、”クライアント”である皇族や上級貴族に、専門技能として武芸(軍事力)を提供していた黎明期(平安中後期)の頃から、最も重要視された技能であり、そのため「武士といえば弓矢」という考え方は、武士の存在した当時の人々が長らく共有した伝統的な価値観といえました。

それは、数百年後の戦国期に、東海道を領した今川義元および、徳川家康が称された『海道一の弓取り』の『弓取り』が、武士そのものを指す表現であったことからも分かります。

つまり『鷹=鷹の羽=武の象徴』

このような例からわかるように、かつては弓矢も『武』の象徴とみなされていました。実際、矢羽根の部分を基本的なモチーフとした矢と矢筈の家紋が、尚武の精神の強い武士の間で大変な人気を誇りました。

かつての武士の魂とも言える弓矢の矢羽根に、鷹の羽根が用いられているという事実は、『鷹=武』という認識を補強するものといえます。以上のことすべてを踏まえると、『鷹=鷹の羽=武の象徴』という図式が浮かび上がってきます。つまりこれが、家紋・鷹の羽に込められた意味というわけです。

しかし、このような認識の出発点が、武士ではなく皇族・貴族だというのも新鮮な驚きではないでしょうか。

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家紋としての鷹の羽

以上のような意味合いを持つ”鷹の羽根”をモチーフとした『鷹の羽』紋ですが、いつ頃・どのようにして誕生した文様・紋章であるかはハッキリとしません。

しかし、鎌倉中期頃の肥後の武将・菊池武房が『並び鷹の羽』紋を旗印に掲げるさまが、※『蒙古襲来絵詞』に描かれており、これが信用にたる史料に登場する、鷹の羽紋の初出であるとされています。

実際、菊池氏は代々、並び鷹の羽紋を家紋に据えた一族であることが知られています。

※『蒙古襲来絵詞』とは、肥後国の御家人・竹崎季長が、鎌倉時代中期に発生した『元寇』における、自身の戦いを描かせた絵巻物のことをいい、当時の武具・旗印・戦法から風俗や習慣なども含めて、当時の様子を今に伝える重要な資料とされているもの。

次に、本格的に鷹の羽紋を使用したことで知られる『菊池氏』とはどういう存在で、なぜ鷹の羽を家紋に据えるようになったのかについて見てみましょう。

鷹の羽を象徴とする菊池氏がいかに名門か

かつて、肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)に勢力を持った菊池氏は、筑前の少弐氏、豊後の大友氏らと共に、古くから九州を代表した武家の名族で、自称の域とも言われますが、遡れば、日本史上においても『超』のつく名門で知られる『藤原摂関家』に連なる家柄とされています。

源平合戦の昔から栄えた菊池一族は、蒙古襲来の活躍などでも知られますが、とくに”南北朝の動乱”においては、後醍醐天皇の皇子を補佐する形で名乗りを上げ、九州の首府たる大宰府を制圧、九州全土の支配を確立します。

全国的に劣勢であった南朝方にあって、唯一気を吐いた形となった菊池氏は、その武威をおおいに高めたといいます。

ただ残念なことに、その後の菊池氏は、注目度の高い戦国期を前にして衰退してしまったため、広く世間に知られる存在とはいえませんが、名門と称されるにふさわしい実績を持っていたことはおわかりいただけたと思います。

それでは次に『菊池氏が鷹の羽紋を使用している由来』について見てみましょう。

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鷹の羽紋のルーツについて

家紋としての鷹の羽の本格的な使用は、菊池氏が知られていますが、それより以前の鷹の羽紋が『阿蘇神社』の神紋であったことは、まず押さえておくべき事実といえるでしょう。

日本でも有数の古社である阿蘇神社とは?

阿蘇神社といえば、肥後国(熊本県)で最も高い社格に設定され、全国500社にも及ぶ分社を抱える由緒正しい神社で、その歴史は2000年を超えるとされます。

鷹の羽紋のルーツである阿蘇神社のイメージ画像

その誕生以来、一貫して大宮司をつとめる阿蘇氏は、皇室や出雲大社の千家・北島両家と並び、神代より現代へと連なるとされる、日本有数の旧家としても知られています。

中世にいたり、武士の誕生が全国的な流れになると、この阿蘇氏も根拠地である阿蘇郡を中心に、各地へ広がるご神領(荘園)をリソースとして武士化し、隣り合う菊池郡の菊池氏とともに、肥後国を代表する封建領主として繁栄します。

かつては神社・仏閣の影響力がいかに大きかったかを物語る

この両家の関係性は深く、特に菊池氏は阿蘇神社を信仰する氏子という立場でもあったため、その神紋を一族の紋章として掲げるという流れになったと考えられているようです。つまり菊池・阿蘇両一族の鷹の羽紋は、この阿蘇神社の神紋がルーツといっていいわけですね。

この氏神・氏子の関係から、信仰の対象であった神社の神紋を家紋と定める例は、全国的にもいくつか見られます。三河国賀茂郡の松平一族(徳川将軍家の出身母体)が、氏神である京都の賀茂神社の『葵紋』を家紋として据えていたことが、その顕著な例といえるでしょうか。

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菊池一族の象徴から尚武の象徴となった鷹の羽紋

武士黎明の頃からの名門であった菊池氏の血脈は、肥後国だけにとどまらず、その血を全国に広げています。南朝方の代表的な勢力であったことから、(北朝への対抗上)全国各地に派遣された後醍醐帝の皇子に随行したことが、その要因のひとつとされています。

菊池の後裔たる証であった鷹の羽紋

肥後国の属する九州では、庶流から派生した赤星・城・甲斐・西郷などの各氏が知られています。これらを含む庶流の家々は、主家が衰退した戦国期以降も断続的に影響力を発揮して存在感を示しています。とくに江戸幕末の西郷氏からは、維新三傑の一人として知られる『西郷隆盛』が輩出されています。

西郷隆盛は、近代日本の立ち上げに関する一連の功績から、明治天皇より菊紋を賜っていますが、実際の隆盛は、重代にわたって西郷氏に伝わる鷹の羽紋を使用したことで知られています。もちろんこれは菊池氏由来と考えていいでしょう。

九州以遠においては、関東や東北にもその血は広がったと伝わります。特に岩手県遠野の周辺には鷹の羽紋を掲げた菊池または菊地姓が多く分布しており、現代の遠野市においては、全体の2割を占めるほどだといいます。

土岐一族の『桔梗』紋や、近江佐々木一族の『目結い』紋は、一族である証明や結束のために使用されたことで知られていますが、多くの庶流家が継続して使用した菊池一族の鷹の羽紋も、そういった意図が強かったのかもしれません。

いずれにせよ鷹の羽紋は、名門菊池氏の血とともに、全国的な分布が始まっていくのです。

他氏族にとっても価値のあった鷹の羽紋

ただ、この鷹の羽紋は、菊地一族以外の使用でも知られている紋章です。とくに武家を中心に広く用いられたようで、その広がりは、よく家紋の解説に見られる「他氏による使用は一部にとどまった」というレベルではありません。

鷹の羽紋は、紋章に掲げることとなった由緒も、名門としての実績も、共に十分な菊池氏の代表紋として、広く知れ渡っているのですから、本来であれば”足利氏の引両紋”や”武田氏の武田菱”のような「有力氏族による専用紋」のような扱いとなっていても、おかしくはありませんでした。

菊池氏の影響力の衰退が要因か

これが、そうはならなかった要因はいくつか考えられますが、まず第一に、社会に対する『武士』の影響力が、これまで以上に増大していくさなかに、菊地宗家そのものが没落してしまっていたことが大きいのではないでしょうか。

由緒と家勢が相まって『紋章=家系の象徴』というイメージを持つまでに至っていた、強固な存在が消えてしまったのですから、その使用を誰に憚ったり遠慮する必要があるのかということでしょう。

次に大きいのは、鷹の羽紋が、武士に人気の集まりやすい(意味や由来といった)バックボーンを持っていたことが挙げらます。

この『バックボーン』については、最初に述べたとおりですが、武門を誇る者ならば、このバックボーンを持ってして「これこそ我が一族の象徴とするにふさわしい」と考える心理もわからなくはありません。

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鷹の羽はこうして武家の人気を一身に集める人気紋となった

このような事情もあり、鷹の羽紋は菊池一族以外にもどんどんとその使用が広がっていきます。

安芸・広島藩や、忠臣蔵で知られる赤穂藩などを一族でおさめたことで知られる浅野氏は、もとは桔梗紋を旗印に、強い結束を持つことで知られた美濃・土岐一族でありながら、鷹の羽紋を使用しました。

三河・松平時代から徳川将軍家譜代の臣であり、一族から多数の大名・旗本と、さらに優秀な幕閣を幾人も輩出したことで知られる阿部氏も鷹の羽紋の使用で有名です。

これらを始めとした大名・旗本の間で広がりを見せた鷹の羽紋は、最終的に120家を超える武家に使用された人気家紋となったようです。

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