【家紋】茗荷の謎に包まれた意味や由来とは?摩多羅神との関係も詳細に紐解く

茗荷紋の代表的な種類の画像
茗荷紋は、世間に広く普及する定番家紋の一つとしてよく知られますが、そのわりに、確かな由緒の伝わっていない『謎の家紋』でもあります。

今回は、その誕生の経緯や秘められた意味や由来、そしてなぜそんな『謎の家紋』が、現在のように広く普及するに至ったかなどの、”茗荷紋の謎とそこにまつわる背景”を徹底的に解明していければと思います。

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茗荷紋が「いかに特異な存在であるか」について

とはいえこの茗荷紋は、その誕生の経緯からしてハッキリしたことが分かっていません。

家紋そのものの成り立ちは、平安時代後期とされ、特にこの茗荷紋のように広く普及した家紋の多くは、さらにその家紋の成り立ち以前から『原型』を持ったものがほとんどです。

その原型とは、『有職文様』を始めとした貴族社会で愛好された華やかな伝統文様のことをいいますが、この茗荷紋にはそうした文様としての目立った使用が見当たらないのです。

茗荷紋と違って、家紋の中には有職文様をデザインのルーツとするものが多い。

つまり茗荷紋は、伝統的な由緒を持つ定番家紋の多くとは異なり、少なくとも中世より前の段階では、多くの人々に知られた存在ではなかったということです。(いや、存在すらしていなかったのかもしれません。)

茗荷という名でありながら、ミョウガを象った紋ではなかった?

このように茗荷紋は、数多ある家紋の中でも、最古級の伝統を持つ存在というわけではなく、誕生の経緯もはっきりとした説を持ちませんが、『杏葉』紋といわれる紋章に、そのデザインが非常に酷似していることで知られています。

それは、歴史的資料として重んじられるいくつかの書物においてさえ、この両者の混同が見受けられるほどです。

このことから茗荷紋は、香味野菜として知られ、その名の元となった『ミョウガ』を直接のモチーフとしてデザインされたものではなく、杏葉紋のデザインを加工して作られた家紋であるという説が有力とされています。

茗荷紋のデザインは、杏葉紋から取り込んだものとされる。

加工元の杏葉紋は、古来より名門の紋章として著名

杏葉紋は、かつて鎮西(九州)武士を束ねた、武士黎明期からの名門・大友氏の使用により、全国的に広く知られたメジャーな家紋でした。現在でこそ、その広い普及で知られる茗荷紋ですが、歴史や由緒の確かさという部分では、明らかに杏葉紋のほうに軍配が上がるとみてよいでしょう。

※杏葉紋が、いかにメジャーな家紋であったかの解説は、カットの上、こちらに移動しました。

杏葉紋から茗荷紋の転化がいつ頃行われたのか、その定説は知られていませんが『見聞諸家紋』には、二宮氏による使用が確認されることから、少なくとも室町時代の中期頃にはすでに存在していたといえそうです。

植物のミョウガと直接の関連がないのは、デザインだけではなく…

茗荷紋が持つ意味や由来に関しても、そのデザインと同じく、ミョウガの植物的特徴とはあまり関連がないようです。

通常、茗荷紋のような植物の家紋のもつ意味や由来というのは、その植物的特徴に縁起をかついで、家系の存続や発展といった、願望の成就を願ったものが一般的です。

例えば、マツやタチバナの木であれば「1年を通して(葉が枯れず)常緑であること」であるし、また、カタバミ草やオモダカ草であれば「生命力が強く根絶が難しいこと」といったものです。

ミョウガの植物としての特徴に直接関係がないのであれば、なぜミョウガが家紋となったのでしょうか?次はそのあたりの鍵を握る、茗荷紋の意味や由来について見ていきましょう。

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異国から来た神と巨大仏教宗派が、茗荷紋の謎の鍵を握る?

最初に述べたとおり、その由緒については謎が多く残る茗荷紋ではありますが、同じく、今となっては大きな謎に包まれてしまった『摩多羅神=またらしん』と呼ばれる『天台宗』の”かつての”守護神との深い結びつきから、摩多羅神のシンボルとみなされているようです。

茗荷紋と関係の深い摩多羅神は天台宗の守護神

ここからは、謎の神・摩多羅神の存在と、そのシンボルである茗荷紋との結びつきについて見てみましょう。

謎の神にまつわる教義と、茗荷紋との関連が示唆される

摩多羅神とは、元はインド土着の神で、のちに仏教に取り入れられた『尊格』(如来・菩薩・明王・天部など、仏教における信仰の対象を指す)の一つとされます。

このようなケースは、ブラフマー(梵天)・インドラ(帝釈天)・マハーカーラ(大黒天)・ラクシュミー(吉祥天)などが知られますが、この摩多羅神に関しては、具体的にインドのどの神に当たるのかは分かっていないといいます。

日光山・輪王寺の『摩多羅神二童子図』には、伝統的な和装を身にまとい、頭には唐風の頭巾をかぶった老人の姿で描かれ、さらに、手前の左右では笹とミョウガを肩に担いだ”丁禮多=ていれいた”と”爾子多=にした”という二人の童子が舞い、この三尊を笹とミョウガの林が囲うという構図となっています。

この神像図に描かれたものが、現在に伝わる一般的な摩多羅神の形象とされているため、この神とミョウガには、何らかの関連があることが示されているといえそうです。

天台宗は日本仏教におけるマンモス宗派

摩多羅神は、天台宗門において広く崇拝されたことから、その存在を知られるようになりました。天台宗といえば、弘法大師・空海によって開かれた『真言宗』と並び、『平安仏教』の二大勢力の一つとして、日本社会に大きな影響を及ぼした宗門です。

平安仏教の2大巨頭、最澄と空海

伝教大師・最澄により『比叡山・延暦寺』を総本山として創始され、『妙法蓮華経』の教えをベースに、『禅』『念仏』さらには『密教』のエッセンスまで取り入れた『日本の総合仏教』ともいうべき宗派とされます。

そのため、のちの『鎌倉仏教』に分類される、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗といった各宗の開祖は、みなこの比叡山にて僧を志し、勉学を修めたことでも知られています。

ベースは妙法蓮華経であるため、宗門の本尊は『釈迦如来』と定められていますが、天台宗はさまざまな教えを取り込んだ宗派であるため、『阿弥陀如来』や『大日如来』『薬師如来』をはじめとした、あまたの尊格が信仰の対象となります。

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天台教学における摩多羅神と阿弥陀如来

摩多羅神もそういった存在の一尊で、延暦寺『常行三昧堂=じょうぎょうざんまいどう』の『後戸の神』であり、『玄旨帰命壇=げんしきみょうだん』の本尊であるともいいます。

常行三昧堂(常行堂)とは、阿弥陀如来を本尊とし、90日の間、阿弥陀仏像の周りを回りながら、念仏を唱える修行(常行三昧行)を行うための(天台教学に特有の)仏堂をいいます。

摩多羅神はこの常行三昧堂の後ろ度に祀られている

14世紀前半に著された『渓嵐拾葉集』に記されたところによると、遣唐使として、唐での長きに渡る滞在を終え、帰国の船中にあった『慈覚大師・円仁』(第3代天台座主)に、「われを敬い祀らなければ、『往生』の願いは達せられぬであろう」という摩多羅神の神託が下ったといいます。

これを受けて円仁は、比叡山に常行堂を建立の上、摩多羅神を(常行堂の本尊である)阿弥陀如来像の裏側、つまり堂の『後戸=裏口』に祀り、常行三昧行をとおして阿弥陀信仰を開始したとあります。

摩多羅神の持つ本来の役割

さらに続く記述では、摩多羅神とは『摩訶迦羅天=まかからてん』であり『荼枳尼天=だきにてん』であるとしています。これらの『天部』の誓願は

「われは、『今まさに息絶えた者』の肝を喰らうことで、その者に往生を遂げさせる。もしわれが、肝を喰らわねば、その者は往生を遂げることが出来ぬであろう。」

というものであり、摩多羅神の本願(仏教尊格が、一般大衆の救済のために立てた誓願)もこれと同様であるというのです。

煩悩のない世界である浄土への往生は、もろもろの悪行や穢れ(煩悩)が滅されている必要があるとされ、そして人の肝には、長い渡世の間に積み重ねた、煩悩という名の塵やゴミが蓄積しているといいます。

そのため、この『死者の肝を喰らう』行為の真意とは、人がその生を終えて往生に臨むにあたって、あらかじめそれを食いちぎっておき、往生を手助けすることにあるとされています。

阿弥陀如来(浄土信仰)と表裏一体の存在として重要視された

さて、ここまで何度か登場した『往生』なる用語ですが、これは本来、『浄土』に転生することをいい、今日の日本において一般的に浄土といえば『極楽浄土』を指します。

極楽浄土とは、阿弥陀如来の創造した浄土であり、安楽であらゆる『苦』の排された、浄土教系のとなえる理想の世界をいいます。

阿弥陀如来の立てた本願は、自らに帰依した者(すがり頼った者。すなわち『南無・阿弥陀仏』の念仏を唱える者)は、もれなく成仏(自らの浄土(極楽浄土)に往生)させるというものです。(※浄土信仰)

ここまでを見ると摩多羅神とは、その手段は別にして、阿弥陀如来の本願である『極楽往生への導き』に、補助役として深く関連する存在であるといって良いのでしょう。

これを踏まえれば、摩多羅神を指していう『後戸の神』の意味するところは、たんに常行堂の裏口の守護というものではなく、『阿弥陀如来』および『念仏』を含めた『浄土信仰』の守護神という位置づけだったことがわかります。

そしてもっといえば、阿弥陀如来の『権現(如来や菩薩が、かりに姿を変えて神として現れること。)』としての性質が形成されていたとまで考えられていたようです。

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『茗荷紋』と『天台宗ならびに摩多羅神』との関係の核心に迫る

阿弥陀(浄土)信仰と深い結びつきをもつ摩多羅神ですが、のちには天台教学の一派である『玄旨帰命壇』の本尊としても祀られました。

玄旨帰命壇とは、摩多羅神の壇前において、『一心三観』や『一念三千』といった天台宗の真髄にかかわる深遠な道理を師から弟子へと投げかけ、”気づき”を促すという『禅宗』のような取り交わしを行うことにより、秘密裏に秘法を口伝・伝授し、※灌頂の上、認可する儀式をいうようです。

※『灌頂』…密教において、弟子の頭頂に智水を注ぐ継承の儀式。現在でも重要視され、種々の作法が伝わるとのこと。

そして、この灌頂を受ける弟子は、『左手にミョウガ』を、『右手に笹』を持って臨むという決まりごとがあるようで、これは先述の『摩多羅神二童子図』に描かれているとおりと見ることができます。

ミョウガと笹に込められた意味とは?

このミョウガと笹には、『茗荷ハ定ノ形法性寂然ノ貌也、笹竹ハ恵ノ形寂而常照ノ智也』といった意味が込められているといいます。少し難しいですが、以下に解説します。

ミョウガの『定ノ形』とは「日常的な心の動きを鎮め、意識を一つの対象に集中して寂静となった状態」のことで、笹の『恵ノ形』とは「真理を見通す心のはたらき」のことのようです。

『法性寂然』は「(『定ノ形』は)不変の真理として安定したもの」を意味し、『寂而常照』は「その安定した心で静かに俗世の現象を見つめる」ことを意味します。この二つの句は、『中国天台宗の開祖』・智顗の説いた『止観』に関する講義の要約である『円頓章』の一節に登場します。

『止観』とは?

止観とは、天台教学において重要な要素を占める『瞑想』の基本心理にして極意です。天台教学にとって、この止観の境地がいかに重要であったかは、最澄が比叡山に開いた本拠寺院(のちの延暦寺)を『一乗止観院』と名づけたことからも窺えます。

この止観のうち、『止』とは「日常的な心の動きを鎮め、意識を一つの対象に集中して、心が寂静となった状態」であり、『観』とは「『止』の状態となった心が、真理を見通す心のはたらきとなって、一切の現象を真理に即して正しく観察すること」であり、『止』を『観』の準備段階とします。

茗荷には、天台教学の極意が込められていた。

さて、ご覧の通り、この『止観』の意味は「玄旨帰命壇の儀式におけるミョウガと笹の指すところ」であり、つまりミョウガと笹には、天台教学の瞑想の極意そのものを指すという重大な意味づけがされていることがわかります。

摩多羅神とミョウガとの深い結びつきは、ここから生じている考えてよさそうです。これが摩多羅神の信仰において、茗荷紋が掲げられ、またそのシンボルとみなされる要因なのでしょう。

茗荷紋と摩多羅神の具体的な関係性はこんなところでしょうか。

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『茗荷紋』普及の背景1・出雲大社と摩多羅信仰

天台宗において、”阿弥陀如来の権現”そして”宗門そのものの守護神”として位置づけられた摩多羅神ですが、おおむね中世頃までは、あの『出雲大社』でも祀られていたといいます。

神紋が茗荷紋である摩多羅神は出雲大社でも祀られていたという

出雲大社といえば、日本神話における主要な神である『大国主神』を祀る神社であり、『神道』における由緒・格ともに、伊勢神宮に並ぶ主要な霊場・拠点といえる、いわずと知れた存在ですよね。

古来よりの神道の重要拠点である出雲大社に、仏教の一宗派である天台宗の守護・摩多羅神が祀られていた理由は、日本への仏教公伝に端を発し、さまざまに形を変えながら、近世より前頃まで存続した慣習である『神仏習合』の観念によるものです。

神道と仏教が統合されていた過去

明治政府により発せられた『神仏判然令』の影響もあり、多くの現代人は、仏教と神道は明確に別個の宗教であるという意識を持っていますが、じつは明治から遡ること千有余年、この神仏習合の思想により、神道と仏教は一つの信仰体系に統合されていた歴史がありました。

日本が、国家として単一の塊を形成してもなお、『神道』は素朴な民間信仰レベルからの発展途上にとどまっていました。そこへ、圧倒的に栄え開けた存在である『大陸』から、”世界宗教”たるにふさわしい深淵な教義と奥深い文化を持った『仏教』が伝来したのです。

神道神話の一節に登場するイザナギ・イザナミ

この背景を考えれば、仏教の受容以来の神仏習合思想のもと、そのほとんどの期間において、仏教が『主』で、神道が『従』という関係だったのも無理からぬ話といえるのかもしれません。

長きにわたって仏教の管理下に置かれた神道

仏教における仏とは、迷える衆生をその教えによって解脱へと導く存在です。しかし当時の日本においては、神道の神でさえ、衆生と同じく”世の苦しみからの救済を欲する存在”に位置づけられたといい、神に菩薩(如来へと解脱すべく、永年にわたり修業を重ねる存在)号を付する現象も多く見られました。

また、神前においても仏式の祭祀が一般的となり、域内に点在する神社を統括・管理する仏教寺院である『神宮寺』の設置も始まります。神宮寺の住職は、一般に『別当』と呼ばれ、統括する神社においても最も強い権力を有し、神官の長である宮司もこの別当の下に置かれました。

このような背景から、「仏教における尊格が、仮の姿で現れたもの(権現)が神道の神である」とする『本地垂迹説』が台頭することになったのです。

出雲大社の祭神が摩多羅神!?

この仏教と神道における『主・従』の関係は、神道の重要拠点であった出雲大社においても例外ではなかったようです。

出雲大社の神宮寺には、山を隔てて北東に位置する『浮浪山・鰐淵寺』が充てられました。鰐淵寺とは、伯耆の大山寺と並んで、山陰地方の天台宗派における中核的な役割を果たしたという大寺院です。

この鰐淵寺が出雲大社の神宮寺となって以降、江戸時代にいたるまでの長期間にわたり、出雲大社の祭神は『スサノオノミコト』に変更されていたといいます。これは、天台宗の神道観・神話観では、出雲の平定はスサノオによるもので、大国主神による国引き・国づくりの神話が顧みられなかったためです。

大国主神の伝説・国引きの舞台である稲佐の浜

ここまでの流れから分かる通り、中世期の出雲大社は、この神仏習合思想のもと、天台宗の強い影響下に置かれていたことがわかります。お察しのとおり、出雲大社における摩多羅神信仰は、この天台宗との関連から起こったものです。

天台宗の影響を受けて、祭神がスサノオに変化したことは、さきの解説のとおりですが、天台宗の影響力の強まった出雲では、さらにこのスサノオを摩多羅神と同一とする解釈まで生まれたといいます。

結果的に出雲大社では、このことから摩多羅神を祀っていた過去があったとされているわけです。

神道勢力の逆襲?両宗教は今日の形へ

ただ、その後の江戸時代中期頃には、社殿における仏教経典の読経や、施設内における仏堂・仏塔の林立などが進むにつれ、神事の衰微の兆候が認められるに至って、出雲大社側が『神仏分離』『廃仏毀釈』を訴え出る事態に発展したといいます。

この訴えが幕府の寺社奉行に認められたことにより、施設内の仏教建築は移設・撤去され、スサノオとされていた祭神も、正式な神話観に基づいて大国主神に復されました。※同時期に神道の優位を説く思想が隆盛し、反本地垂迹説ともいえる『神本仏迹』説が発展していたという側面も見逃せません。

これにより、鰐淵寺と出雲大社の関係は白紙に戻ることとなり、出雲大社の摩多羅神信仰も廃れることになりますが、この中世期の山陰地方には、鰐淵寺を始め、先の伯耆大山の大山寺、安来市の清水寺など、天台宗の主要寺院を中心に、摩多羅神信仰が広がりを見せていたことがわかります。

現在の鰐淵寺には、(摩多羅神との関連の深い)常行堂の他に『摩多羅神社』が存在し、また清水寺からは、現存する最古の摩多羅神(坐)像が発見されるなど、その信仰の名残が残されています。

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『茗荷紋』普及の背景2・日光山と摩多羅信仰

さらに、世界遺産にも登録される日光山内(にっこうさんない)の寺社も、摩多羅神との関係が深いことで知られています。

日光山内とは、広大な日光の山岳地帯の中でも『日光二社一寺』として知られる『日光東照宮』『日光二荒山神社』『日光山輪王寺』の建造物の大半が所在する地域を指します。

霊場・日光山のあゆみ

この二社一寺が所在する日光の山岳群は、いわゆる日光三山(男体山・女峰山・太郎山)を中心に、古来より山岳信仰が盛んな霊峰でした。

仏教が興隆した奈良時代には、のちに『輪王寺』となる四本龍寺と、日光の主峰とされる男体山をご神体として祀る『二荒山神社』が創建され、東国有数の霊場として、武士階級を始めとした多くの人々の信仰を集めたとされます。

輪王寺にも常行堂が存在する

平安時代以降、輪王寺には、三仏堂(本堂)・常行堂・法華堂が設けられたことなどから、天台寺院としての立場が明確になったとされ、一方の二荒山神社は、日光三山のそれぞれをご神体(日光三所権現)として祀ることになったようです。

日光山の主祭神。

東照宮の建立とその背景

この日光の社寺と摩多羅神との関係は、上記のように天台寺院である輪王寺に、常行堂が設けられたことがその始まりですが、その傾向がより深まったのは、この日光の地に建立された『日光東照宮』にも摩多羅神が祀られたことが大きいといえます。

茗荷紋が神紋の摩多羅神は日光東照宮にも祀られている

日光東照宮とは、徳川家康を主祭神として『山王一実神道』式に祀った宮社です。その神性は薬師如来の権現であり、神号は東照大権現と定められています。また配祀神(主祭神のほかに祀られた神のこと)として、『山王権現』と『摩多羅神』が配されました。

日光東照宮の主な祭神には摩多羅神が名を連ね、その紋は茗荷紋とされる。

山王一実神道とは、神仏習合の思想に基づいて、法華経の真理に基礎をおいた天台宗発祥の神道説の流派です。『山王権現』を中心とした神々を信仰します。

山王権現とは、延暦寺が開かれるより遥か以前から存在した『山岳信仰』と、のちにこれら日本のアニミズムが徐々に統合されて成立した『神道』、さらに『天台宗』とを融合させて祀られた延暦寺の鎮守神のことをいいます。

「東照宮に摩多羅神」は天海のゴリ押しが遠因

これら家康の祭祀にかかわる一切は、『南光坊・天海』の主導により行われたといいます。

日光東照宮の茗荷紋も天海がいなければ存在しなかった?

“天台宗の高僧”である南光坊・天海は、家康含め、徳川三代に渡るブレーンとして、朝廷対策や宗教政策をはじめ、対・豊臣外交における対応方針の立案、江戸の都市計画への参画などで、活躍したことが知られています。

また、その実績を背景に『比叡山焼き討ち』以後、衰退の著しかった天台宗にあって、輪王寺や寛永寺(徳川家の祈祷寺と菩提寺)をはじめとした、各所の天台寺院の再建や建立への尽力により、その宗勢の立て直しを実現しました。

もちろんこれには、天海の幕府内における地位が大きく影響したことは言うまでもありません。

このように、輪王寺・常行堂だけでなく東照宮にまで祀られるほど、日光において摩多羅神が重く用いられた要因とは、江戸幕府内において、隠然たる権力を保持した天海によって、日光二社一寺の”天台宗色”が急激に強まったからだといえるでしょう。

「東照宮の神輿に茗荷紋」の理由

現在、一般に目につくところで目立つその痕跡といえば、東照宮の例大祭に使用される神輿ではないでしょうか。

日光東照宮に伝わる3基の神輿うち、1基は主祭神である徳川家康の、あとの2基は豊臣秀吉と源頼朝の御霊が乗る輿であることが伝わっていますが、これは明治以降に、山王権現には秀吉が、摩多羅神には頼朝が重ねて祀られたことに由来します。

源頼朝の輿とされる神輿に(太鼓などの付属の神具も含めて)、茗荷紋が印されているのはこのためであり、東照宮と摩多羅神との関連が一般の目にも明らかであったことがわかります。

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茗荷紋の使用拡大と天台・摩多羅信仰との関係

こうして見ると摩多羅神とは、天台宗によってその影響力が育まれ、天台宗とともにその存在が全国へと広がっていったことがわかります。ここに書ききれなかった例も併せて考えれば、それは”天台寺院あるところに摩多羅神あり”といっても過言ではないほどです。

そして当然この流れは、そのシンボルである茗荷紋を伴ったものであるといえます。

この茗荷紋は、どちらかといえば宗教信仰に基づく紋章といえるため、”華やかさ”や”猛々しさ”のイメージや由来とは無縁の存在であり、そのため貴族や武士といった特権階級による使用が目立つわけではありません。

目立たなかった茗荷紋が、普及していく前提が整う

中世期の家紋は、貴族や武士といった支配階級に特有の文化でしたが、江戸時代以降は、一般庶民にも家紋文化が浸透していきます。

厳格な身分制度により、苗字の公称は武士階級の特権となってしまったため、公の場で苗字を利用できなくなった庶民階級が、家系の識別のためのツールとして、苗字の代わりに家紋を利用し始めたためです。

つまりこれは、社会の圧倒的少数派にとどまっていた家紋の使用という慣習が、社会全体へと大幅に拡大したことを意味します。

そのため、この時期に「家紋の新規利用者」たる多くの一般庶民から、”家系の象徴”として選ばれた人気家紋が、一気にその占有率を伸ばすことになり、そしてそれが概ね現在の割合分布に直結しているというわけです。

摩多羅神の存在感の高まりが、茗荷紋の普及拡大を強烈に後押し?

当時、新たに家紋を選択する基準にはいくつかのパターンがあり、その条件に合致した紋種に人気がとくに集中したわけですが、現在でも十大家紋に挙げられるほど広い普及を誇る茗荷紋が、この時期に支持を集めた要因とは一体なんだったのでしょうか?

それは、先に述べた日光東照宮の創建による日光山参詣の隆盛と、その東照宮への摩多羅神の祭祀が、図らずもこの家紋ブームの直前に起きたことが大きいといえるでしょう。

摩多羅神とそのシンボルである茗荷紋の存在が、『乱世の収束』や『太平の世の実現』といった功績により、大きな尊崇を集めた徳川家康とともに祀られたことによって、当時の人々から多くの認知が得られたであろうためです。

また、徳川政権下における南光坊・天海の威光もあり、天台宗そのものが関東一円を中心に大いに繁栄していたという背景も見逃せないでしょう。さらに、先の「神仏習合時代における、天台寺院と出雲大社との関係」のようなケースは、この山陰地方だけに限った話では、当然ないはずです。

それら諸々を併せて考えれば、天台宗や浄土(阿弥陀)信仰の守護神である摩多羅神の知名度や信仰の広がりは、当時それなりのものがあったに違いありません。

このような背景があれば、摩多羅神のシンボルとも、またその神紋ともされた茗荷紋に対する人気が高まっていったというのも納得です。

摩多羅神ならびに茗荷紋が謎の存在とされる一因とは?

摩多羅神が、阿弥陀如来の浄土信仰における補佐役であり、また玄旨帰命壇の本尊であり、そして天台宗門の守護神ともみなされ、天台教学とともに発展してきた存在であるのは、ここまで見てきた通りです。

しかし、長らく摩多羅神を本尊とした玄旨帰命壇は後年、他宗の異端流派に大きく影響され、徐々に愛欲貪財のみだらな邪教と化したことから、近世に至ってついに禁教の憂き目にあってしまいます。

以来、その本尊であった摩多羅神はタブー視され、玄旨帰命壇に関する典籍もことごとく焚書されたといいます。

摩多羅神が人々の記憶から忘れ去られ、謎に包まれた存在となった要因は、このあたりにあると見られ、ひいてはこれが、茗荷紋の由緒やその意味、また広い普及を獲得したプロセスなどの諸々が、はっきり解明できない要因の一つになったのだろうと思われます。

茗荷紋の選択、その他の理由について

摩多羅神との関連以外にも、茗荷紋を家紋に選択した理由として語られるものが、細々したものを含めていくつか存在しますが、その中でもとくによく知られるのは、茗荷紋の『みょうが』という音が、仏教用語の『冥加=みょうが』に通じるというものがあります。

この冥加とは、浄土宗を創始した『法然』上人もよく用いた概念で、知らず知らずのうちに神仏から賜っている『目に見えない加護』のことをいいます。反対に、『目に見える加護』は『顕加=けんが』といいます。

目に『見える』加護とは、仕事がうまくいったり、贈り物やお土産をいただいたり、通りすがりの人に危ないところを助けられたりといった、自身ではっきりと認識できるありがたい出来事を指します。

そして、目に『見えない』加護とは、直接的な幸運や吉事ではなく「日常を大過なく健やかに過ごせること」や「世の中のよい流れの中に身を置けること」を神仏の加護と見なす場合に、これらを指していいます。

冥加には、具体的な神仏の加護が顕れていない・隠された状態であるから、『冥』の字が当てられているというわけですね。

広い普及には、『験担ぎ』のライトな由来も必要

つまり、この茗荷紋が家紋として選択されたのは「渡世上のさまざまな局面において、運に見放されることがありませんように」という願いを込めたことが、理由の一つとしてあるようです。

ただ、一般的な用語としての冥加は、冥・顕を区別せず、神仏の加護そのものを指すようにもなったようで、たんに神仏の加護をねがった家紋ということもできそうです。

杏葉紋を象ったのは、茗荷に似ているという理由だけなのか?

以上が茗荷紋に込められた意味や由来、その普及の様子から現代までの流れについての解説となります。しかしこの茗荷紋について、個人的に一つ気になっている部分がありますので、最後にその部分について触れておこうと思います。

その『気になっている部分』とは、茗荷紋のデザインに関してです。茗荷紋のデザインは、杏葉紋を加工して作ったものという説が有力であるのは、最初に述べたとおりです。

この茗荷紋のデザインは、ミョウガの『花穂=かすい』の部分を象っているように見えます。そしてミョウガの花穂の部分は、たしかに杏葉紋に似ているといえなくもないのですが…。

茗荷紋のデザインは、花みょうがをモチーフにしたと思われるが…。

花みょうがを握って儀式しないと思うのですが…

ミョウガの花のつけ方はとても独特です。成長した葉茎からは花をつけず、その周辺の地面から花穂が発生し、開花に至るという珍しい方法をとります。そして、この地面から生えた花穂が主に食用(花みょうが)となります。

ミョウガの開花の仕方は独特なものがある。

ミョウガといえば、この食用の部分をイメージするのが一般的かもしれませんが、摩多羅神の神像図に描かれるミョウガは成長した葉茎であることから、実際の儀式で用いるのは、手のひらサイズの花穂ではなく、笹竹ともつり合いの取れる葉茎であったのだろうと思われます。

摩多羅信仰の儀式に用いられるミョウガは葉茎の部分ではなかったか?

にもかかわらず、摩多羅神のシンボルとして用いられる茗荷紋のデザインは、その花穂の部分を象っているのはなぜなのでしょうか。

茗荷紋の成立時期が確定していないがゆえに起こった疑問

まず、茗荷紋が摩多羅信仰に関係なく、かなり早い段階から紋章化されていたのであれば、一般的に「ミョウガを象徴する部分」といえる花穂をデザインのモチーフとするのもごく自然といえますし、その花穂部分と見た目の似ている杏葉紋からのデザインの拝借も頷けます。

しかし茗荷紋が、摩多羅信仰が基となって生まれた紋章だとすれば、やはり花穂の部分がそのモチーフとなっていることには、違和感を覚えてしまいます。

案外、茗荷紋はこうして成立したのかも知れない

ここで一つ気になる事実があるのです。以下に記します。

まず、摩多羅神といえばこれまでの解説通り、天台宗により阿弥陀如来の垂迹神(権現)であり、浄土信仰の守護神とされた存在です。そして、その浄土信仰のみに洗練・特化された宗教が、鎌倉時代に成立した浄土教系の『浄土宗・浄土真宗』となります。

浄土宗とは、天台教学に学んだ『法然』が、既存の仏教(あまねく一般大衆が、み仏の教えを理解し、自力で悟りを開いて成仏をめざす教え)に対する限界を悟り、専修念仏に可能性を見出した末に興した宗門をいいます。

法然上人は茗荷紋の誕生の鍵を握っているかもしれない

ただ、現在も有力な仏教宗派であるこの両浄土宗において、(天台教学では阿弥陀如来と表裏の関係にあった)摩多羅神の存在は、微塵も感じ取ることができません。

それは「阿弥陀如来を仏教尊格の中でも至高の存在とし、その本願にすがり、ただひたすらに南無阿弥陀仏と唱える」という、一般大衆にも理解しやすいシンプルな教義を目指したが故といえるのかもしれません。

しかし、長年にわたって天台宗の僧であった法然ですから、専修念仏の教えを立ち上げた当初は、まだまだ「天台教学における浄土信仰」の影響が色濃かった可能性は大いにありそうです。

そんな浄土宗の『宗紋』は、法然の実家である漆間氏の家紋を用いたものだと伝わります。

その宗紋の元となった漆間氏の家紋が、『杏葉』紋であるのは単なる偶然でしょうか。

茗荷紋の原型?浄土宗の宗紋は杏葉紋

家紋「茗荷」(茗荷紋)の一覧

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